*以下記載の歴史文は

各種書籍の参考文献やインターネットをもとに整理作成したものです。


古代
平城京・平安京
鎌倉 北条   
室町  
戦国   
江戸   
幕末  
明治維新 から第二次世界大戦前   
第二次世界大戦後  





日本史

日本史のはじまり

古事記

光明天皇が太安万侶に編纂させた。天武天皇に仕える稗田阿礼委が読み習ったものを口頭で太安万侶に伝えた。(和銅5年(712))

国内が対象。

日本書紀

川島皇子ら6人の皇族 &中臣大嶋ら6人の官人&渡来人らが漢文で舎人親王を経て元王天皇に編纂献上。

中国や朝鮮を考慮。

国生み                                                                                               

国生み天上に神があらわれ、国生みをする男神の伊邪那岐の神と女神の伊邪那美の神が現れた。この2人が日本の国土を完成させた。

伊邪那岐は様々な困難に会い、汚れを清めるため禊を行った。そこで登場したのが天照大神と月読命、須佐之命の3神であった。

国生み後は多くの神々を誕生させた。海、風、山、木、野の神。

天岩戸

天照の子の須佐之男が高天原で暴れだし怒った天照は天岩戸に籠ってしまう。太陽神が隠れたことで災いをもたらし始めたが、説得の末、岩戸から出すことができた。須佐之男は罪を科せられ追放。

八岐大蛇

追放されに降り立った須佐は八岐大蛇に生贄にされようとしたくしなだ姫を大蛇と戦って救い、妻に迎えた。

大国主神の国作造り

須佐之男命の6代目の子孫、大穴牟遅神(後の大国主神)は因幡の白兎を救い、八上比売から結婚相手に選ばれたが嫉妬を買い兄弟から命を狙われる。試練を乗り越え国作りに励み、地上全体を治める偉大な神となっていった。

大国主神の国譲り

古事記編纂の最大の目的、主権の正当性を語るため国譲りが始まった。

天孫降臨

海さちひこ、山さちひこ

神武の東征

沙本毘売(さほびこ)の悲劇

倭建命(やまとたけるのみこと)の遠征

父景行天皇の命を受け、倭建命、は反抗する九州南部の熊曾を討ちに行く。

討伐ごすぐに出雲を倒し、さらに東国の平定をいいわたされ各地の勢力を服従させる。

神功皇后の遠征

朝鮮半島を攻めろとの神功皇后に降りてきた神に告げられ、半島に進出。新羅を降伏させた。百済も貢物を届けさせることを約束させる。

皇后は後の応神天皇を生む。

応神天皇と3人の子

3人の息子を重用し、統治した時代は穏やかだった。朝鮮半島からの渡来人が先進文化を伝えた。

仁徳天皇と皇子たちの争い

国民が貧しいと税を免除し、宮殿が傷んでも直さない。16代仁徳天皇は聖帝と称され善政を敷いたことで天皇のあるべき理想とされる。

求婚を拒否し女島王の悲劇が起きた。皇后の嫉妬深さが遠因となったが皇位をめぐる争いでもあった。

皇子たちの王位継承の争いも起きた。

允恭天王の皇子の悲劇

騒乱を制した大長谷命

オケとタケ

古事記の終わり

日本書紀のはじまり

雄略期の外交と吉備氏の反乱

独断専行で統治に臨む雄略天皇は国民から恐れられる天皇であった。

朝鮮半島にも干渉。国内では吉備氏との敵対関係。

継体天皇と磐井の乱

新羅と密約した九州の豪族磐井氏が反乱。

仏教伝来

欽明天皇の時代百済王が仏教を伝えてきた。その受け入れを巡って朝廷内を2分する物部氏と蘇我氏が鋭く対立する。

物部氏を倒すために参戦した厩戸皇子(うまやまとのみこ 聖徳太子)は仏教に熱く帰依し戦勝を仏に誓った。

仏の加護を受け物部氏を制した蘇我氏総帥の蘇我馬子(うまこ)は広く国内に仏教を受容させるとともに、天皇家の庇護者として、朝廷に君臨する絶大な権力者の座を手にする。

推古天皇と聖徳太子

推古天皇は蘇我氏の血を引く聖徳太子に政治をまかせた。官僚制度を確立するため、

冠位12階の制定や17条憲法の発布を行う。さらに、仏教を政治理念の中心に置き法隆寺を建立、仏教文化の興隆に大いに貢献した。

小野妹子を遣隋使とした。

乙巳の変(いっしのへん)

中大兄皇子と中臣の鎌足が曽我蝦夷を滅ぼす。

大化の改新と白村江の戦い

乙巳の変の後、即位した孝徳天皇は、初の元号「大化」を採用し、難波に都を移して新しい政治を開始する。中央政権と律令制への移行。

これを大化の改新という。

律令政治の実現へ

持続天皇が大宝律令を発布し、律令にもとづく国家運営の道筋をつけた。


藤原京 平城京 平安京

630 第一回遣唐使派遣

697 藤原京に都を移す 日本で初めての国家体制が確立された

    大化の改新以後、その新しい国家の首都として造営された

    日本最初の都市

701 大宝律令を制定

707 元明天皇(女帝)が即位

708 和同開珎を発行 1枚で米1.8㎏が買えた

710 平城京に遷都 朱雀門など

712 太安万侶が古事記を完成

715 元正天皇(女帝)が即位

720 日本書紀が完成

724 聖武天皇が即位

729 長屋王の変 長屋王が謀反の疑いにより自殺させられる

730 光明皇后が皇后官職に施薬院を設置する。

737 天然痘が大流行し、藤原四兄弟など政権中枢の帰属も多数死亡

740 大宰府で藤原広嗣の乱をきっかけに恭仁京に都を移す

741 国ごと国分寺と国分尼寺を作る詔がだされる

742 紫香楽宮をつくる

744 難波京に都を移す 行基が大僧正となる 紫香楽京に都をうつす

745 平城京に戻す

747 東大寺大仏の鋳造を開始

749 孝謙天皇(女帝)が即位

752 東大寺大仏の開眼供養

754 唐から鑑真が来日して戒律を伝える

759 鑑真が唐招提寺を建立する

764 藤原仲麻呂の乱が起こる 称徳天皇が即位する

770 光仁天皇が即位 760~770 このころ万葉集ができる

781 桓武天皇が即位

784 長岡京に都を移す

794 平安京に遷都 平城京の用水の不便さ。川から離れて

    いた大量輸送ができる船が使えない。生活排水、衛生問題

797 坂之上田村麿呂 征夷大将軍勘解由使を設置

804 最澄、空海 入唐

805 最澄 天台宗を開く

806 空海 真言宗を開く

809 嵯峨天皇即位

810 薬子の変 藤原武家衰退 頭家台頭 蔵人所設置

816 検非違使を置く

819 空海 高野山に金剛峯寺を建立

820 諸皇族に源姓を賜う 源姓の始め 藤原北家の台頭

    藤原冬嗣ら弘仁格式を撰上

821 藤原冬嗣 勧学院設立

823 比叡山寺を延暦寺とする 空海 綜芸種智院設立

833 右大臣 清原夏野ら「令義解」を撰上

838 事実上最後の遣唐使 円仁ら入唐

847 円仁ら帰唐

866 良房 摂政となる 最澄に伝教大師 円仁に慈覚太師の諡号 

    このころ 祇園社(八坂神社創建)

    応天門の変

887 摂政政治の開始 藤原基経 関白の詔をうく

888 阿衝の紛議 教王護国寺 両界曼荼羅図 仁和寺金堂建立

    後醍天皇即位 

892 藤原道真「類聚国史」を撰上

    国風文化(藤原文化)

901 延喜の治

905 紀貫之ら「古今和歌集」

927 藤原忠平ら延喜式完成 竹取物語 伊勢物語

935 土佐日記

946 村上天皇即位 天歴の治

947 北野神社建立

951 空也 西光寺(六波羅密寺)建立 宮中に和歌所

969 摂関政治の全盛 安和の変 藤原家全盛

    蜻蛉日記 寝殿作りの大成

970 兼通、兼家の繁栄

985 源信 「往生要集」

1011 道長の女彰子 一条中宮に

     清少納言 枕草子 紫式部 源氏物語

     他 赤染衛門、和泉式部など国文学の隆盛極まる

1016 道長摂政に

1017 藤原頼道 摂政となる 道長 太政大臣となる 

このころ田楽すでに行われる

1019 道長 関白と

1052 このころ 末法思想流行(仏滅2001年)

1053 平等院鳳凰堂落成 同 阿弥陀如来像

1063 鎌倉 鶴岡八幡宮建立

1068 後三条天皇即位

1072 量衝の制定まる

1086 白河上皇 院政を始める

     院政期の文化 として「大鏡」がある

     金剛峯寺 「仏涅槃図」

1096 このころ 田楽が流行

1098 源氏の隆盛 源義家 昇殿を許される

1108 源義親の乱 このころ「大鏡」 「栄花物語」(下編)

     「今昔物語」

1117 藤原基衡 陸奥平泉に毛越し庭園

1124 藤原清衡 中尊寺金色堂建立

1129 鳥羽上皇の院政開始

1152 平清盛 厳島神社 社殿を修復 「鳥獣戯画」

1156 保元の乱 

1159 平治の乱

1160 白水阿弥陀堂

1164 「平家納経」を厳島神社に奉納

      富貴寺大堂「伴大納言絵詞」

1167 平清盛 太政大臣になり平氏全盛

     「信貴山縁起絵巻」

      「扇面古写経」

      ここころ オックスフォード大学創立

1175  法然 専修念仏を唱え浄土宗を開く

1180 頼朝挙兵 石橋山の戦 頼朝 侍所を設置

1184 頼朝 公文所 問注所を設置

1185 壇ノ浦の戦いで平家滅亡 

     諸国に守護、公領 荘園に地頭を置く



鎌倉北条氏年表

1156 保元の乱

1159 平治の乱

1160 源頼朝、伊豆姪が小島に流される

1180 頼朝挙兵 石橋山に敗れる

1185 平家一門 壇ノ浦に滅ぶ                                            

1192 頼朝 征夷大将軍になる

1199 頼朝死去 梶原景時、鎌倉より追放される

1203 頼家、伊豆修善寺に幽閉される

1205 畠山重忠滅亡。 北条時政失脚

1213 和田義盛挙兵するが敗死

1219 実朝、頼朝の遺児 公暁に暗殺される

1221 後鳥羽上皇、北条氏追討の院宣をくだす                                                             

1221 幕府軍入京 (承久の乱)

1224 義時死去。 泰時、執権となる。

1224 北条政子死去。評定衆設置

1232 関東御成敗式目を制定。

1242 泰時死去 経時 執権となる

1246 経時、執権を弟 時頼に譲る。 経時死去

1247 三浦康村一族滅亡

1249 引付衆設置

1256 時頼出家し長時が執権となる

1263 時頼死去

1264 長時死去。 政村が執権。時宗が連署となる。

1268 蒙古の国書、鎌倉に届く。時宗が執権につき、政村が連署となる。

1272 幕府、異国警固番役を始める

1274 元・高麗軍が襲来(文永の役)

1281 蒙古再来襲。 大風雨により元軍壊滅(弘安の役)

1284 時宗死去 貞時、執権となる

1285 安達安盛一族滅亡。(霜月騒動)

1293 鎮西探題設置。貞時、平頼綱を誅殺する。

1311 貞時死去

1324 後醍醐天皇の倒幕計画発覚する

1326 高時出家し金沢貞顕、執権となる

1333 新田義貞、鎌倉を攻略、高時ら一族が自害し北条氏滅ぶ

平直方(たいらなおたか)が北条氏初代とされる。

平忠常の乱の平定を命ぜられるが、京都に逃げ帰る。代わりに、甲斐の守源頼信が忠常を降伏させ、直方の面目まるつぶれとなった。直方伊豆へ隠居。栄枯盛衰を繰り返し5代の孫 北条時政につらなる。時政は源頼朝をかついで鎌倉幕府を成立させる。執権北条氏の初代となる。

兵の歴史

大化の改新から、律令制度で公民公地を原則とし、平城、平安においても変わらない。

しかし、時代を経るとともに重税に耐えかねて、公民は逃散を重ね、荘園という皇族や貴族、大社寺の私領が朝廷に認められると、かれらはこちらの田地で働くことになる。つまり中世日本は農民が国と私に2種できたことになる。これに加え新しい開墾の開拓者として第3の農民が誕生。こちらは紆余曲折のすえ、永代私有を認められる。やがてこの墾田の中から家族や一族を束ねて勢力をもつものが現れた。それらを武士と呼ぶようになった。平直方も源頼信もそうした棟梁であった。

農場主とはいえ朝廷、官人からみれば、なんら農夫と変わらない。意のままに土地を取り上げた。我が食うコメを作り、飢えをしのいできた武士たちは、その土地を守るため、献上のためにひたすら農地拡充に励む、ばかげた立場を選択させられた。朝廷を奉ることで互いに競争し卑しい官位でも大喜びで、おのれの優越を示した。

武士に切り開かれた土地が増えると境界を巡るトラブルが多発。武力抗争が繰り返されることになった。後の武士道の源流となる兵の道は自領たる「一所」を巡って、土地争いの中から生まれた。兵は弓、馬術にたけ、首領たるもの、名誉を重んじ、豪胆でしかも勇気があり、武芸に秀でて正々堂々としていなければならぬとされた。

大将の条件

源平合戦のころの大将の条件

「威」 武芸に秀でる、己の名誉、面子

「情」 好敵手を思いやる、家人にやさしい

「血」 血統

国軍なき中世日本

中大兄皇子と孝徳天皇による

大化元年(645)に創設 国軍=官軍

軍の編成 兵1万、5千、3千を単位とする

この常備軍は徴兵制度の形をとった 所属方面により「防人」とか「屯田」などと呼ばれた。

日本での最初の征夷大将軍 坂上田村磨呂が蝦夷平定を成し遂げた。

不思議なことに、こう武帝の「天下の徳政」に対する決断により明治維新まで正規の官軍は存在しなかった。

中世での治安維持には「検非違使」だったが、そのご争いの規模が大きくなると、戦国武将などの顔役の出現となった。

                                                            

源氏と平家、 源平合戦

東国においては当初は平家、その後源氏が支配権を確立。

瀬戸内海では海賊集団出現したが

公家政権により平家が討伐を命じられた。ここで出世したのが平の清盛の父忠盛。海上輸送を主とする平家に対し陸上輸送中心の源氏の縄張り争い、源平合戦が始まった。

貞永式目

初期の北条氏が1232に定めた。鎌倉幕府とその支配下の御家人に守らせるための法律で、国家憲法とまではいかなかったが、いろいろ形を変え、明治維新まで続いた。

平家による源氏追い落としの謀略

平忠常の乱で名声を得た源頼信を契機として奥州を平定した源氏は、東国にその基盤を作り、八幡太郎義家の代に最盛期を迎える。義家の名声を恐れた朝廷は、義家と義綱の内紛をあおり、義家の子義親が鎮西(九州)で乱暴をはたらくと、すぐに追討の官使を派遣、伊勢平氏の平正盛(平清盛の祖父)を起用、義親を討ち、それ以後西日本を中心に盗賊や海賊退治に活躍する。

源氏の方は義家の死後内紛。義忠が継ぐが殺害される。義綱に嫌疑をかけられ、

爲義が義綱一族を追滅。抗争により凋落へ向かい、爲義は検非違使となり、源氏挽回のため藤原頼長と関係を結ぶ。しかし、頼長にクーデター疑惑があった。父と子である鳥羽法皇とそうほ崇法上皇の仲が悪く、鳥羽は崇法の追い落としを画策するが、鳥羽崩御。その後後白河法皇のとき保元の乱がおこり平家の巨大化となっていった。上皇方筆頭で左大臣の藤原頼長は、主要戦力である、源爲義に多大な期待をかけた。

爲義の野心は保元の乱で水泡に帰す。

その後清盛が鳥羽院政の機嫌をとりながら、その保護をうけつつ源氏を凋落させ、平治の乱で源氏のとどめをさした。

清盛と信西

藤原氏の傍流に生まれ、己の才覚だけで後白河天皇の信任を勝ち取った信西は平治の乱で義朝を仲間とする藤原信頼にクーデターを起こされ大和方面に落ち延び、自ら命をたった。信頼が朝廷の実権を握る。

これに驚いた清盛が援軍を集め京の六波羅に駐留。双方、決戦は躊躇した。天皇と法皇を自軍に迎え、信頼、義朝を朝敵として清盛に軍勢を

発向させた。源氏は善戦したが大敗を喫する。信頼、斬首、義朝、暗殺される。

源頼朝伊豆へ                                                      

義朝の3男 源頼朝

平治の乱で父、義朝とともに戦うが清盛に敗れ、京都に護送される。斬首の運命にあったが、清盛の継母、池禅尼のおかげで一命を取り留めた。14歳の頼朝、伊豆で流人として20年間過ごすことになる

平家一族の繁栄の時代となった。朝廷の中枢を抑え、官使の主要ポストを一族で分配し、貿易の利益を独占、天皇の血までもわがものにしようとした。

頼朝は大富豪伊藤一族、伊藤祐親の3女の間に男子が生まれた。流人の境遇を改善できる望のある縁であった。しかし平家を恐れた裕親はこの子を沈めてしまった。娘は土豪のところに嫁がせた。このことがきっかけで頼朝暗殺計画に会いすんでのところで北条館へ逃げ込んだ。

幸い、あるじの時政は上洛中で、留守をあづかっていた北条宗時が迎え入れた。頼朝の青少年時代に築かれた、堅牢複雑な性格、政治的バランス感覚が、血を分けた弟(義経)をも始末してしまう冷酷さを作り上げたと思われる。

平家崩壊の要因

平家打倒の、鹿ケ谷の謀議が発覚し、後白河の側近が清盛により、捕縛された。成親など事件の首謀者が、信じていた親戚に裏切られた清盛のショックは大きかった。

福原遷都

安徳天皇、その母、建礼門院、後白河法皇、高倉上皇を始め公卿、殿上人をこぞって、福原(神戸)に移住させた。海上交通の要所で巨万の富を築き、その中心地に住まわせた。

1167 清盛、太政大臣となり、朝廷政治のトップにたった。

当然のなり行として、この繁栄で、院、貴族、寺社権門との対立抗争が生まれる。

以仁王の出現

後白河法皇の第2子の以仁王

源頼政が以仁王に接近。このとき清盛の継承者の平重盛の他界で平家一門の将来展望が不透明になった。以仁王は今なら源氏を率いて平家を倒せるのではないか。この謀議も清盛に漏れた。以仁王逮捕を命じたが、命じられた兼綱(実父は頼政の弟、頼行)が頼政に急報する。

頼政は準備不足のまま決起した。以仁王に都落ちさせ、300騎を率いて、国城寺を頼った。平家を憎む延暦寺にも働きかけた。しかし、平家は双方に、賄賂を使った。これに大満足した結果、双方は中立を宣言して頼政からの申し出をはねつけた。

その後、奈良の興福寺説得に目指したし、途中、一戦を交えたが、多勢に無勢、頼政自刃、以仁王は流れ矢に当たってこの世を去った。

怪僧 文覚

諸国の源氏を挙兵させる動きは東国にも出現。真言宗の僧 文覚は伊豆に流された頼朝に挙兵させ平家を倒すことを考えた。諸般の事情で頼朝挙兵に至る。

三善康信

京の情報を伊豆の頼朝に送り続けた。

比企ノ禅尼(ひさのぜんに)や、安達盛長

頼朝の乳母の1人で生活面の面倒をみてくれた。

頼朝の母の実家からは安達盛長が熱心にかよった。

源氏再興の第一戦

相手は山木判官 兼隆(かねたか)で、勝利する。

石橋山の敗戦

大場三郎景親に敗れるが、梶原景時の見逃しで頼朝九死に一生を得る。阿波の国(千葉県)の孤島に逃げた。

時政と義時は甲斐の国へ落ちる。

頼朝軍再起

頼朝はすぐに試射を使わし、上総、下総の広常、千葉が総勢2万騎を率いてやってきた。平家への不満が頼朝挙兵で結集。

源氏諸流には佐竹、新田、足利、木曾、武田があったが、それぞれは、頼朝に参戦しなくても独自に行動できる軍事力をもっていた。

しかし、北条時政、義時親子が甲斐の武田に合流をうながし実現させた。いつしか頼朝軍20万騎を超えた。

これに対し、平家は、源氏討伐の総大将、清盛の嫡孫の平維盛であった。

富士川の合戦

治承3年1179は西日本は飢饉、東日本は例年並みの豊作。平家は兵糧に苦労、兵力も少なく、栄華におぼれ、平和ボケで弱体化していた。

平家は逃亡、源氏が戦勝した。頼朝は京へ進軍せずに鎌倉に戻り、武府を作り、土地問題、紛争を解決する調停機関の設置し、関東八州に国家を樹立することが先決と考えた。

木曾義仲

治承4年にすい星のようにあらわれた。

市原の緒戦で勝利。

越後大豪族・城氏を破る。さらに越中、加賀、能登、越前の武士団を吸収し勢いを示す。上洛一番乗りで、頼朝と対立するが、平家を打ち倒すことが先と、和睦をする。

倶利伽羅谷合戦で平家に大勝した義仲は上洛を果たしてしまう。すぐさま後白河法皇に京都守護を命ぜられたが、このあたりから、凋落し始めた。義仲軍の京での乱暴狼藉が、西日本の飢饉の中、反義仲感情を形成した。後白河法皇は傍若無人な木曾勢を京都から追い出すため、平家追討を命じた。一方で頼朝に再三、上洛を促した。義仲苦戦中に、頼朝の命を受けた義経が西進した。義仲は頼朝追討の院宣を発令させ、軍勢を立て直そうとしたが、許可が下りなかった。困った義仲は、後白河法皇の御所に火を放ち、法皇と天皇を幽閉した。

後白河法皇は頼朝と連絡をとりながら、義仲を窮地におとしめていく。

平家の反撃と鎌倉の軍勢が迫り、六条河原で義経と戦い敗れる。討ち死にする。

九郎義経

頼朝の異母弟。常盤御前の子として生まれる。幼名、牛若、仏門に入って遮那王と称した。

木曾義仲を破り、乱暴狼藉を禁止するなど、京を救い、短い生涯で英雄となった義経は長く有名になった。

義経の戦法は速攻。ひよどりこえの奇襲戦法は有名。

平知盛

清盛は治承5年生涯を閉じた。知盛(清盛の4男)が軍事による指導権を掌握する。知盛は平家の伝統を正しく受け継いだが体が弱く戦列を離れることもあった。平家最後の武将。智謀、胆力、的確な判断力を備えていた。



                                                                                                                                                                          


室町時代(早島大祐著)

室町年表

1301 北条貞時執権退任

1305 北条時村を暗殺し、北条宗宣に討ち取られる。

1314 朝廷、文殿雑訴法を定める。

1318 後醍醐天皇即位。

1322 後醍醐、造酒司に洛中酒屋の公事を徴収させる。

1324 六波羅探題 日野資朝・日野俊基をとらえる。(正中の変)

1326 北条高時出家。量仁親王(光厳)立太子。

1329 中国からの高僧 竺仙梵僊(じくせんぼんせん)が来日。

1330 朝廷、洛中の米価を公定。

1331 吉田定房の密告により、幕府、日野俊基・元観・円観を捕まえる。北条高時、長崎高資の追討に失敗する。

1332 幕府、後醍醐を隠岐に流す。各、護良親王吉野に挙兵。

1333 後醍醐を奉じて名和長年が挙兵。足利尊氏ら六波羅探題を滅ぼす。新田義貞、鎌倉を落とす。護良を征夷大将軍に任ずる。

     記録所を置く。中厳円月、後醍醐に時弊を論じる。

1334 「乾坤通宝」鋳造。若狭太良庄民、地頭の非法を訴える。二条河原の落書き。

1335 北条高時の子、時行、信濃で挙兵。尊氏、時行より、鎌倉を奪還。

1336 尊氏旗下の将士に建武政府の収公地を返還。尊氏、筑前多々良浜に菊池武敏を破る。後醍醐、京を出て吉野に移る。

1338 北畠顕家、後醍醐に諫奉する。北朝、尊氏を征夷大将軍に任ずる。

1339 尊氏、暦王寺(天龍寺)を開く。

1340 南朝、北畠親房に関東八か国の成敗を委任。

1342 懐良親王薩摩に着岸。土岐頼遠、光厳上皇の車を射る。秋天龍寺造営料唐船、渡元。

1343 結城親朝、幕府方として挙兵。親房、吉野に帰る。

1345 天龍寺落成。

1347 懐良、東福寺城を攻撃。細川顕氏、堺浦へ出陣。

1348 高師直、楠木正行を河内条で討つ。

1349 足利直義、足利直冬を中国探題に任ずる。京の勧進田楽が評判になる。師直、直義を討つため尊氏の邸を囲む。

1350 直義、師直・師泰を討つため、兵を募る。直義、南朝に降りる。

1351 尊氏、直義と和する。幕府、直冬を鎮西探題とする。尊氏、南朝に降りる。南朝、北朝の天皇・皇太子・年号を廃止(正平一統)

1352 尊氏、直義を毒殺。南朝、足利義詮を追い正平一統敗れる。近江・尾張に半済令が出る。山名時氏、楠木正儀ら京都を陥落す。

義詮京都を回復

1355 懐良、博多を陥落す。

1356 二条良基「菟玖波集(つくばしゅう)」を編む。

1357 尊氏、九州遠征を計画。

1359 関東執事畠山国清、入京。

1361 懐良、大宰府に入城。細川清氏、南朝に出奔。畠山国清、足利基氏に背く。

1362 畠山国清、投降。

1363 山名時氏、幕府に帰服。春屋妙把(しゅんおくみょうは)、天龍寺住持となる。この年、大内弘世、幕府帰服。

1364 春日社神人ら斯波高経の河口庄押領につき強訴。

1365 両朝講和の噂が立つ。

1366 佐々木導誉、勝持寺において花見をする。懐良親王(かねよし)、河野通直に四国・中国征伐を命じる。倭寇禁圧を求める

高麗(こうらい)使、出雲に着岸。

1367 足利氏満、鎌倉公方となる。

1368 「応安大法」が発布される。義満、征夷大将軍となる。

1369 楠木正儀、幕府に降参。楠木一族、正儀を攻める。

1370 今川了俊を九州探題とする。

1371 春屋妙把、細川頼元と反目し、丹後へ隠退する。

1372 了俊、懐良の征西府を大宰府から逐う。二条良基「連歌新式」を定める。

1373 興福寺衆徒、藤原氏の籍から二条良基を除く。義満、明に使者を送る。鎌倉五山の制を定める。

1375 島津氏久、南朝方へ転じる。

1377 南九州の国人が、盟約し、了俊に応じる。この年、播磨矢野庄の惣庄一揆が起こる。義満、室町第に移る。義満、世阿弥を同席し

     祇園御霊会を見物。

1379 細川頼元にかわり斯波義将が管領となる。義満、二条良基邸で連歌を楽しむ。春屋妙把が天下僧録となる。義堂周信、鎌倉

     報恩寺から京都建仁寺へ移る。この年、義満に使者を送る。

1381 後円融天皇、義満の室町第に行幸。この年南朝の長慶天王「仙源抄」を著す。

1382 後小松天皇(ごこまつてんのう)即位。

1383 義満、準三后となる。

1384 肥前松浦党の46名一揆盟約を結ぶ。

1385 義満、二条良基と春日社へ詣でる。大和本神戸四か郷の民守護制礼を望む。

1386 義満南禅寺を五山立上とする。

1387 信濃の南軍村上・小笠原・高梨氏ら善光寺に挙兵。

1386 義満、富士山を遊覧。

1389 義満、厳島で頼元、了俊らと会談。義満、高野山参詣。

1390 幕府、土岐康行を討ち康行は逃亡する。(土岐氏の乱)。大雨続く。

1391 山名氏清、幕府軍と戦い、戦死(明徳の乱)。後亀山天皇、神器を後小松に渡す。(南北朝の合一)

1393 山名満幸、出雲に挙兵。播磨矢庄民、代官の非法を訴えて逃散。

1394 後亀山上皇、天龍寺で義満に会見。義満太政大臣となる。

1395 京極高詮、山名満行を京都で殺す。義満、出家。幕府、今川了俊を京都に召還する。義満、満済を醍醐寺座主とする。

1396 九州探題渋川満頼、博多につく。

1397 金閣上棟。

1399 春、鎌倉公方足利満兼、弟満直、満貞を陸奥に遣わす。義満、相国寺大塔供養を行う。大内義弘、幕府軍と戦い戦死。(応永の乱)

1400 世阿弥「風姿花伝」を著す。了俊、幕府に降る。日向を幕府料国とする。

1401 幕府、相国寺を五山第一とする。義満、僧祖阿・肥富らを明に派遣する。

1402 信濃を幕府料国とする。

1403 汰武峯衆徒、興福寺衆徒らと戦う。この年、琉球船、武蔵六浦に漂着する。

1404 陸奥仙道の国人20名一揆盟約を結ぶ。安芸国人33名一揆盟約する。

1406 幕府、山城に段銭を課する。伊達持宗、私成敗を禁ずる。

1408 足利義時、義満の死を明に告げる。

1409 管領斯波義将、義満の死を朝鮮に告げる。幕府、率分関を廃止する。このころ、女の拙「瓢鮎図」を描く。

1410 陸奥海道五郎10名の国人一揆同盟を結ぶ。幕府、管領斯波義淳にかわり、畠山満家を任ずる。

1411 幕府、明使節王進の入洛を不許可。

1412 細川満元を管領に任ずる。四条河原で勧進猿楽。南蛮船若狭に来る。

1413 伊達持宗ら、陸奥大仏城に挙兵。

1414 足利持氏、鎌倉中の酒壺銭を円覚寺に寄進。関東管領 上杉氏憲(禅秀)、持氏の怒りに触れ隠退する。延暦寺衆徒、守護六角

     満高の罷免を求める。

1416 義持、武器を持つ相国寺僧に遠流を命ずる。

1417 足利満隆、上杉氏憲(禅秀)ら、持氏の兵に敗れ、自殺する。(上杉禅宗の乱。幕府、石清水八幡宮に摂津、兵庫西関、河上諸関

     の灯油料壮胡麻関銭を免除する。

1418 幕府、足利義嗣を殺す。

1419 朝鮮対馬にて派兵する。(応永の外寇)。この年、幕府、北野麹座に麹座独占を認める。

1420 朝鮮使節宋希環来日する。

1421 常陸の額田義亮叛き、持氏に攻められる。

1422 鎌倉府、武蔵六浦に関を設ける。

1423 足利義量、征夷大将軍になる。

1424 幕府、鎌倉府和睦する。

1426 興福寺・東大寺の争いを受けて両寺の別当を改替する。近江坂本の馬借京都に乱入し、北野社放火を企てる。幕府、これを防ぐ。

1427 幕府、洛中洛外酒屋土倉条を定めた。義持、赤松満祐の所領を赤松持貞に与える。

1428 京畿諸国の住民、徳政を要求し蜂起する(正長の土一揆)。 幕府訴証の手続きを定める。

1429 播磨の一揆、侍、守護と戦う。(播磨の国一揆) 大和宇陀郡に土一揆。足利義教、征夷大将軍となる。

1430 幕府、洛中洛外酒屋土倉条を定めた。幕府借り物返済の法を定める。

1431 畠山満家、細川持之ら義教に政道の意見をする。

1432 大内持世・弟持盛と家督を争う。大和の土一揆。

1433 延暦寺衆徒、幕府に強訴するが幕府に降伏する。

1434 世阿弥 佐渡へ配流。

1435 幕府、延暦寺弁澄らを殺す。

1436 桂河原の女猿楽で喧嘩。多数の死傷者がでる。

1437 義教の弟大覚寺義昭、挙兵が露顕し、大和に出奔する。

1438 上杉憲実、持氏と不和により、幕府、持氏征討の軍を発する。(永享の乱)

1439 憲実、足利学校を修造する。

1440 石川持光ら陸奥篠川に足利満直を殺す。

1441 結城氏朝、上杉清方らと戦い戦死(結城合戦) 赤松満祐、義教を殺す。(嘉吉の変) 土一揆、徳政を要求して蜂起。

軍事政権としての室町幕府

足利尊氏がかって、つかえた後醍醐天皇を追放した直後の建武3年(1336)に幕府の基本的法令となる「建武式目」が作成された。

「政道事」に関する17か条

    倹約を行われるべきこと。倹約、禁酒、礼節。

    軍欲共遊を制せられるべき事。

    狼藉を鎮められるべき事。

    私宅点検を止められるべき事。

    京中空き地を本主に返さるべき事。

    無尽銭土倉を興業せらるべき事。(金融業の再建)

    諸国守護人、殊に、政務器用を択ばるべき事。(しかるべき人材を諸国守護に登用する)

    権貴女性禅僧口入を止められるべき事。(政治口入の禁止)

    公人緩怠を誡めらるべし。並びに、精撰有るべき事。公人や近習の引き締め。

    固く賄貨を止めらるべき事。

    殿中内外につき、諸方進物を返さるべき事。

    近習者を選ばるべき事。

    礼節を専らにすべき事。

    けんぎ名誉ある者、殊に、優賞せらるべき事。

    貧弱輩の訴訟を聞こし召さるべき事。

    寺社訴訟、事により用捨あるべき事。

    御沙汰式日時刻を定めらるべき事。

足利尊氏・義詮(よしあきら)の時代

当時の京都は後醍醐方に与同したとして、半分以上の人が内容の真偽に関わらず、家を追われたり、壊されたりした。

さらに、昼夜を問わず、強盗殺人があいつぐなど建武政権互解後の京都は、じつに悲惨な状況。京都に進駐した足利尊氏以下の軍勢は

戦後のを立て直す作業から始めねばならなかった。後醍醐崩御。怨霊を鎮めるため、天龍寺を建立、安国寺・利正塔の建立。南朝方が京

都に侵攻し尊氏近江へ退去。鎮魂が室町幕府の基本政策となっていく。

中世に政治は、裁許など様々な要素が含まれるが、重要な役割は、祭祀など年中行事の遂行にあった。

正平の一統後の混乱は北朝に大打撃。南朝方が京都の制圧に成功し、三院を拉致したため、幕府は新しく朝廷を作り直さねばならなかった。祭事の遂行も不安定で、朝廷社会の荒廃につながった。

足利義満の時代

天皇の求心力、権威の低下。慢性的年貢の欠如。結果、土倉への課税を提案。朝廷改革。当初、政治は、義満と後円融に委ねられていた

が後、不仲となる。義満の黄金趣味に、財力の差に不満。南北朝合一で天下統一を着々と進める。相国寺建立。

北山第造営(金閣寺を含む)。義満の気質形成には禅宗の影響があった。

足利義持の時代

義持の時代には在京守護たちの政治的・文化的成熟と、義持擁立の際に彼らの果たした役割もあって、幕府政治は、彼らが表に出る

形で進められた。朝廷の祭祀・儀礼の復興に関心が集まり、幕府の支援を受け、義詮末期の政治の萌芽期、義満の奔放さを経て、

ようやく、中世の政治の主体を確立することになった。その結果、都市依存型財政への転換がなされ、在地支配は間接化していき

「下剋上」の素地を作り出していったが、室町の天下の形は、このような形で定まった。


戦国時代

応仁の乱 (1467)

室町幕府の8代将軍足利義政が引退し跡継ぎ問題が応仁の乱のきっかけとなった。

東軍 細川勝元 畠山政長 斯波義敏 足利義視 足利義政

西軍 山名持豊 畠山義就 斯波義簾 足利義尚 日野富子

幕府の政治

官僚や四職  各地の守護、守護代に管理を任せっきり。めったに来ない人が支配権を持つのに不満に思い自分こそが支配者と思う下剋上。

3官僚  細川氏 斯波氏 畠山氏

世継ぎ人争い  義視----義政 細川勝元

        義尚----日野富子 山名持豊 伊勢貴親

山名持豊が足利義政を自由にあやつり細川側の追放を計画する。幕府が追放していた畠山持国の実子 義就(よしひろ)を将軍に許してもらう。そのため 畠山の家督を争っていた、細川勝元が後ろ盾していた義子の政長が解任され後任に斯波義簾がつき、政長が劣勢となり逃げる。

この争いが世継ぎから端を発して応仁の乱のきっかけとなった。

11年の争乱の結果 将軍の権威は失墜 山名持豊・細川勝元死去

足利義尚 9代将軍となる。

山名政豊と細川政元の間で和義が成立し、大内政弘(周防の大名・山名方)が所領の安堵を条件に京都から撤退し完全終結。

下剋上

従来の守護大名による支配に反発した家臣や国人が守護大名を倒して国内の実権を握っていく現象。

守護大名は京都にいて将軍や天皇の権威を使って自分の国を支配していた。

守護の代理a守護代から戦国大名a朝倉氏(越前)長尾氏(越後)尼子氏(出雲)

地元の有力武士a国人から戦国大名a毛利(安芸)伊達(陸奥)長曾我部(土佐)浅井(近江)

支配能力にたけた人aそれ以外からa北条早雲(伊豆・相模)斎藤道三(美濃)

北条早雲 1432~1519

今川義忠(駿河)の死去にともない今川氏親と小鹿範満の家督争い

今川義忠の正妻の兄である北条早雲が調停役となり、居座ろうとした(氏親に譲ろうとしない)小鹿を滅ぼした。

褒美に興国寺城(沼津)を与えられる。

足利政知(伊豆は鎌倉公方が支配していた)の子の茶々丸が11代将軍 足利義澄の母と弟(潤童子)を殺したとの嫌疑をかけられ扇谷上杉定正の忠告を聞き入れず上杉自刃。北条早雲は伊豆を攻めるよう手引きし茶々丸 出陣中、伊豆は攻め落とされた。あわせて小田原城も陥落させた。結果、早雲は伊豆・小田原を支配する戦国大名となる。

細川政元(応仁の乱の和義を成立。細川勝元の後継者)が

足利義稙を更迭した。畠山一族の内紛に介入し、河内に政長支援のための幕府軍を送り込む。清晃(後の足利義澄)を11代将軍に擁立した日野富子や諸大名が、これに反撃した。

結果 政長自害。足利義稙は降伏。

義澄を傀儡将軍とし、事実上 細川氏が官領職を独占。畠山勢力はそぎ落とされる。

その後三好長慶が細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義治、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。

斎藤道三

土岐頼盛を追放。土岐頼芸を守護に立て権力強化。永井氏に嫌疑をかけこれを討伐。

美濃戦国大名となる。

毛利元就 1499~1571

毛利氏は元々3万石程度だったため、大内(周防)、尼子(出雲)とは服属関係にあった。

尼子氏の尼子晴久が領土拡大。毛利元就は尼子の居城の富田城を兵糧攻めした。援軍として大内に傾いていた毛利を自分のほうに近づけようとしていた、大内氏は大将 陶晴賢(すえはるかん)が尼子晴久を総攻撃。

尼子晴久の後継者義久は降伏。

元就は策略として 元就と尼子方の新宮党が手を組んだと尼子晴久に謀反の噂を流した江良房米が元就と組んで陶晴賢を倒そうとしているという嘘を流す。

陶晴賢は大内氏を滅ぼす。元就は主君を殺した大罪人として陶晴賢をせめ厳島を占領し自害に追い込む

結果 毛利元就は中国地方の覇者となる。

川中島の戦い

上杉謙信 対 武田信玄

上杉謙信

父爲景が主君の上杉房能を殺害。(下剋上)

晴景に家督を譲る(病弱でリーダーシップがない)

晴景が長尾景虎を襲撃。景虎勝利。

晴景の養子になり家督を継ぐ。

上杉憲政をかくまい、上杉の姓を継ぎ上杉謙信と名乗る。

竹田氏(守護出身の戦国大名で清和源氏の流れを引く由緒ある家柄)

応仁の乱をきっかけに弱体化したが 武田信昌が信濃の軍勢を撃退し権力を回復。

孫の武田信虎(武田信玄の父)が諸豪族を制圧し甲斐の統一を行う。

今川氏親(駿河の大名)を撃退、信濃侵攻を強引に行い専横的行動がめだつようになった。武田は内陸で弱小なため北陸日本海への進出を目指した。戦略として、国人を切り崩し相手を描くらん前哨戦を十分行って城を攻略。戦わずして勝つ。諏訪氏攻略。笠原氏援軍を破る。村上義晴と戦うが敗北。上杉謙信を頼る小笠原長時を破る。信玄が信濃を支配する。

信玄はクーデターを企画し信虎を強制的に隠退させる。信虎に娘(今川義元に嫁いだ)に会いに行くように勧め、信虎は居城である駿府城に向かう今川方に拉致される。信玄が甲斐の戦国大名となる。

武田が支配することが重要とした川中島を上杉は自国の防衛と伝統的権威の崩壊を防ぐため、川中島の戦いが始まった。

計5回戦った。

1553 一回目小競り合い。信玄は本願寺一機、三国同盟のさ中。検診は上洛して後奈良天皇から論旨を受ける。

1555 2回目 信玄が北条城主北条高広に反乱を起こさせたのがきっかけ。海津城を作る。駆け引きや持久戦。

1557 3回目 小競り合い。信玄は木曾義中を破る。

1561 4回目 大規模戦闘 信玄のキツツキ戦法を見破り激戦となったが兵の数で勝る信玄が劣勢を挽回し両者とも勝利宣言。

     5回目 信玄が決戦を避け決着つかず。

結果 両者は川中島を離れられず、上洛のチャンスを逃がす。その間、織田信長が台頭し上洛。

織田信長 1534~1582

1560 桶狭間の戦い。今川義元を破る。清州城を奪う。

1567 美濃攻略

1568 入京

1570 姉川の戦い始まる。浅利・朝倉氏を破る。

1571 延暦寺焼き討ち。

1575 長篠の戦。武田勝頼に大勝。越前の一向一揆1574~1575平定。

1580 大阪石山本願寺を屈服させる。

1582 本能寺で光秀に倒される。

織田氏は尾張の管理を任されていた。支配は斯波氏。父の信秀は織田氏の家老だった。下剋上で戦国大名織田氏の誕生。

1535 松平清康の 三河に侵攻。岡崎安しょうを奪う。松平は今川を味方につけ孫の竹千代を人質。織田氏に強奪される。

小豆坂の合戦で今川が圧勝し竹千代を取り返す。京への準備が整った。1562松平元康(千代丸 後の徳川家康)と 清州同盟を結ぶ。

味方につける。

1565 武田信玄と甲尾同盟を結び、背後から攻められる危険をなくす。

美濃攻略では、京都に上るに都合のよい美濃の斎藤竜興を倒し稲葉城を奪う。岐阜城と改称。

1568には足利義昭を将軍に立てて堂々と入京。

1570 姉川の戦いでは朝廷が浅利・朝倉の擁護姿勢を強めていたため、朝廷との和解。兵糧攻めし一向衆を殺す。義昭追放。石山本願寺と対立。浅井長政・朝倉義景・三好三人衆が信玄・延暦寺・本願寺一向一揆を味方につけて信長包囲。

1571 延暦寺焼き討ち。

1572に武田が三方が原で徳川軍勢をやぶり、足利義昭を攻め追放、室町幕府を終わらせた。                        

その武田を長篠の戦いで信長が大勝する。

今川元義 信虎と婚姻関係を作り手をくむ。これに怒った北条氏綱と花倉の乱を起こす。

      婚姻関係 北条氏政と信玄の娘黄梅院 今川氏真と北条氏康の娘 武田義信と今川義元の娘

雪舟   今川義元の参謀役。善得寺の会見で今川・北条・武田の同盟を結ぶ。可束の乱

織田氏の配下にあった鳴海城や同調した大高城が今川に侵攻された尾張沓掛城とともに今川についた。

織田氏が今川を攻めるため進軍中、今川義元は田楽狭間で休憩中、討たれる。このとき尾張団の松平元康は無断で岡崎城に戻っていた。信長と清州同盟を結び今川に見切りをつけていた。

義元が討たれ、尾張に信長ありとよばれるようになった。

信長は天皇の権威を得るため京に上る。国司の地位を得て、京に上るため美濃斎藤氏を攻める。道三の抵抗激しく撤退。代わりに稲葉城を攻める。その後、曽根・稲葉・大垣・氏家・北方・安藤を味方につけ斎藤を総攻撃し陥落させた。

三好氏の京都実権を握るまでの経緯。

細川政元に将軍職を追われた足利義稙

11代 足利義澄が義稙と大内義興とに追われる。義稙復権。細川高国と折り合いが悪く淡路に逃れ、阿波で死ぬ。

12代 足利義晴 細川高国が三好政長・元長に敗れ実権は細川晴元になり、13代将軍義輝は近江に逃げる。

三好元長(堺の実権を握る)の子である三好慶長が畿内で勢力を固める。その後木沢長政を倒し、叔父の三好政長と細川晴元を倒す。

義輝と和睦して京都に迎える。官領につぐ最高位相伴象に上り詰める。

三好長慶に仕えていた松永久秀が京都の実権を握る。三好3人衆 三好長逸・三好政康・岩城友道とは互いに反目しあうようになった。

正親町天皇

信長で京都の安定を図ろうとした。朝倉義景のもとにいた足利義昭を迎える。六角を破る。15代将軍足利義昭誕生。松永久秀追放。信長は副将軍を断る。信長従三位参議につく。信長は義昭と対立、「殿中の掟」で規制を強める。義昭の妻の出である浅井久政・長政 信亥 三好 石山本願寺との対立。姉川の戦い。徳川軍の活躍もあり浅井氏攻略。朝倉攻略。

豊臣秀吉

1583 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。前田利家裏切る。勝家 お市の方と自 害。1582に明智光秀を倒す。山崎の戦い。

明智光秀は信長に四国討伐司令官のポストを奪われる。信長に対する不満から本能寺の変を起こす。光秀の娘 たま(細川ガラシャ)を細川忠興に嫁がせる。忠興は光秀の味方をしない。秀吉 清水宗治討伐の際「中国返し」で光秀を倒す。

1584 小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦う。織田信雄と講和により徳川家康が秀吉を攻める大義がなくなった。

秀吉近衛家の養子になる。関白となる。惣無事令(戦いをやめ秀吉の言うとおりに領土を分割させた)。豊臣の姓を受ける。

1586 太政大臣に昇進。1585 関白となる。1582 清州会議 
後継者選びで信長の直系のまごが
3歳だったため秀吉が後継者になろうとした。

1585 四国平定。長曾我部元親が土佐一国の大名となる。1587 九州平定。バテレン追放。九州の島津義久を従わせる。バテレン追放令。1585 九州に惣無事令。秋月種実を3か月で降伏させる。1588 刀狩令 1590 小田原包囲し北条氏を滅ぼす。奥州平定で伊達政宗を服従させる。1591 身分統制令。1588海賊取締令

1592 文禄の役 朝鮮出兵。全国統一後忠誠心維持のため海外に目を向ける。

1597 慶長の役 2回目の朝鮮出兵。加藤清正 敗北。浅野幸長 殺戮 鼻きり。

1598 秀吉死去

徳川家康 1542~1616

1584 小牧・長久手の戦い 秀吉と和睦。

松平弘忠の長男として生まれる。三河平定。1547 織田信秀の人質 1548今川義元の人質 1562 信長と清州同盟
1568 今川氏の領国を武田と折半。1570 浜松居城。1572 三方が原の戦いで信玄に敗れる。1575 長篠の戦で武田勝頼を破る。1582 武田氏を滅ぼす。駿河・甲斐を占領。

1590 関東を領有。関東8か国を与えられる。小田原攻め。

1600 関ケ原の戦いで石田光成を破る。

東軍 伊達 前田 福島 毛利 蜂須賀 宇喜多 小早川 上杉 (小早川 朽木 脇坂 赤座が寝返り)

西軍 浅野 前田 石田光成 増田 長東 家康暗殺計画をたて近江で挙兵

1603 江戸に幕府を開く。征夷大将軍となる。

1614 大阪冬の陣

1615 大阪夏の陣 豊臣を滅ぼす。

1616 太政大臣となる。家康死去。


江戸時代 

1600 慶長5年 家康  関ケ原の戦い

1601 銀貨鋳造                                                                                                                                                          

1603 慶長8年 家康  家康征夷大将軍。江戸幕府を開く。

1604 慶長9年 家康  糸割符制 始まる

1605          家康 退く。 秀忠が任命される。

1607 慶長12年 秀忠 門倉了以 富士川水路開く。朝鮮使節江戸に来る。

1609 慶長14年 秀忠 オランダの平戸貿易始まる。島津氏琉球に出兵。

1610          メキシコに田中勝助を派遣

1613 慶長18年 秀忠 伊達政宗、支倉常長を欧州に派遣。平戸にイギリス人商館を開く。

1614 慶長19年 秀忠 大阪冬の陣。高山右近らキリシタンをマニラ・マカオに追放。

1615 元和01年 秀忠 大阪夏の陣。豊臣氏滅亡。武家諸法度・禁中並公家諸法度・諸宗諸本山法度制定。

1616          家康太政大臣となる。家康没し駿河久能山に葬る。中国船以外の外国船の来航を長崎平戸に限定。

1619          堺の船問屋、菱垣廻船による江戸廻船を開始。

1623          秀忠征夷大将軍を嗣ぐ。

1624 寛永01年 家光 イスパニア船の来航禁止        

1631          奉書船の制度を定める。

1633          奉書船以外の日本船の海外渡航・帰港を禁止(鎖国令1)

1634          日本人の海外往来・通商を制限。(鎖国令2)長崎町人に出島を築かせる。

1635          日本人の海外渡航・帰国を禁止。外国商船の入港を長崎・平戸に限定。(鎖国令3)。武家諸法度改定。参勤交

代の制度化を定める。

1636          ポルトガル人を長崎出島に移す。(鎖国令4)。寛永通宝を鋳造。

1637 寛永14年 家光 島原の乱

1638          幕府商船に限り五百石積以上の造船を許可。

1639 寛永16年 家光 ポルトガル人の来航禁止 (鎖国令5)

1641          オランダ商館を平戸より長崎に移す。

1642          幕府、人身売買禁止令を各街道に布告。

1643 寛永20年 家光 田畑永代売買を禁ず

1651 慶安04年 家綱 由井正雪の乱(慶安の変)

1652          戸次庄左エ門らの老中暗殺計画発覚(承応事件)

1657 明暦03年 家綱 江戸の大火

1658          江戸に定火消設置

1663          武家諸法度を改定し殉死を禁止

1664          諸大名に領地の判物・朱印状を与える

1671          川村瑞賢、東廻航路を開く。翌年西廻を開く。

1673          分地制限令を公布

1680          家綱の遺言により弟綱吉将軍となる。

1683          武家諸法度を改定

1684          若年寄稲葉正休、大老堀田正俊を江戸城下で刺殺

1685          長崎貿易の額を制限

1687       綱吉 生類憐みの令を発す

1693          新井白石、徳川綱豊(後の家宣)の侍講となる。

1694          江戸市中十組問屋成立

1695          萩原重秀らの意見により金銀貨改鋳

1696          萩原重秀勘定奉行となる。宮崎安貞「農業全書」刊行

1700          金銀銭三貨の比価を定める。

1702 元禄15年 綱吉 赤穂浪士、吉良義央を討つ

1704          甲府城主 徳川綱豊、将軍世子となり、家宣と改名

1706          元禄銀を改鋳

1707          富士山噴火

1709 宝永06年 家宣 新井白石を登用 生類憐みの令を廃止

1710          武家諸法度の改定、金銀を改鋳

1711          白石の建議で朝鮮通信使の待遇を改める

1712          萩原重秀罷免

1714          金銀貨を改鋳し慶長金銀の品質に戻す(正徳金銀)

1715          長崎貿易を制限

1716 享保01年 吉宗 吉宗将軍となる(享保の改革)五街道の呼称を定める。白石を罷免。

1717          大岡忠相町奉行となる 武家諸法度改定、天和の制に戻す

1721          評定所門前に目安箱設置 小石川薬園を設ける

1722          流地禁止令を公布 幕府、諸大名に上米を命じ参勤期限を緩和(上米の制)小石川薬園に小石川養成所を設置

1723          足高の制を定める。流地禁止令を撤廃

1730          上米を廃止し参勤交代を旧にもどす                               

1732 享保17年 吉宗 享保の大飢饉

1733          各地で打毀し起こる

1736          正徳金銀を改鋳し元文金銀鋳造

1739          陸奥、安房、伊豆沿岸にロシア船出没

1742          公事方御定書成る

1744          田畑永代売買の禁止を緩和

1747          定免制を全面施行

1758 宝暦18年 家重 宝暦事件

1767 明和04年 家治 田沼意次御用入りとなる

1772          田沼意次老中となる

1778          ロシア船蝦夷地に来航し松前藩に通商求める

1779          松前藩通商拒否

1782 天明02年 家治 天明の大飢饉 下総印旛沼干拓事業始まる

1783          浅間山大噴火

1786          田沼意次失脚

1787 天明07年 家斉 天明の打ちこわし 松平定信老中となる 飢饉、米価高騰

1789          幕府棄損令を発し諸大名に囲い米を命ずる

1790          江戸石川島に人足宿場を創設

1791          幕府江戸町法改正し、7分積金制を制定

1792          ロシア使節ラクスマン根室に来航通商求める

1793          松平定信老中を辞職

1797          ロシア人択捉島(エトロフ)に上陸

1798          近藤重蔵ら択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を建立

1800 寛政12年 家斉 伊能忠敬蝦夷地を測量

1801          伊能忠敬、幕府の命により伊豆から陸奥の沿岸測量に向かう

1802          蝦夷奉行設置(のち函館奉行と改称)

1803          アメリカ船、長崎に来航し通商を求める。幕府拒否

1804          ロシア使節レザノフ長崎に来航し通商を求める

1805          レザノフの通商拒否

1807          函館奉行を松前奉行と改称

1808          間宮林蔵ら樺太探検に出発 イギリス船長崎に侵入しオランダ人を捕まえる 長崎奉行 松平康英引責辞任

              (フュートン号事件)

1809          間宮林蔵、間宮海峡を発見

1810          幕府 白河・会津両藩に相模・安房の海岸に砲台構築を命じる

1811          松前奉行所役人、ロシア艦長ゴロウニンを国後島(クナシリ)でとらえる

1812          高田屋嘉兵衛 国後島付近でロシア船に捕まる

1821          松前奉行所廃止

1825          幕府諸大名に外国船うち払いを指令(異国船うち払い令)

1828          幕府、シーボルトを出島に幽閉(シーボルト事件)

1829          シーボルトに帰国を命じ再入国を禁止

1833          江戸で打毀し起こる

1834          水野忠邦老中となる 大阪市中で打毀し起こる

1836          各地で一揆、打毀し頻発

1837 天保08年 家慶 大塩平八郎の乱 越後柏崎で国学者生田万らが陣屋襲撃(生田万の乱)アメリカ船モリソン号浦賀入港

奉行これを砲撃

1839          幕府 渡邊崋山・高野長英らを捕らえ処罰(蛮社の獄)

1840          高島秋帆、洋式砲術の採用を建議

1841          水野忠邦、幕府改革に着手(天保改革) 高島秋帆、徳丸原で西洋砲術の調練を行う 幕府、江戸菱担廻

船積十組問屋を解散し各種株仲間、問屋、組合を禁止(株仲間解散令)

1842          異国船うち払い令を止め薪水、食料の給与を許可(薪水給与令)

1843          幕府、諸国の人別を改め、江戸より人返しをはかる(人返し令)幕府、諸藩に印旛沼開墾を命ず

              江戸・大阪十里四方上地令公布 上地令撤回 水野忠邦罷免

1844          幕府、印旛沼開墾中止 オランダ使節開国を勧告

1845          幕府、オランダ要求拒否

1846          幕府、江川英重に伊豆7島の巡視を命ず アメリカ東インド艦隊浦賀に来航通商求めるが拒否。

1847          幕府、相模、安房、上総、下総諸国の沿岸防備を厳重にする オランダ長崎に来航し再び開国を勧める

1850          佐賀藩 反射炉を築造 江川英重、伊豆にれ山に反射炉を築く

1851          土佐漁民、中浜万次郎らアメリカ船に送られ琉球に上陸 幕府十組問屋ほか株仲間の再興を許可

1853 嘉永06年 家慶  ペリー来航 ロシア使節長崎来航 品川台場築造に着手 大船建造の禁を解く

1854          ペリー再来 日米和親条約を締結、下田、函館を開く 日英、日露和親条約締結

1855          蝦夷地を収公

1856          幕府、駒場に洋式調練を行う 築地 講武所開始(のち陸軍所と改称)アメリカ総領事ハリス下田に着任

1857          下田条約調印

1858 安政05年 家茂 井伊直弼 大老となる。 日米修好通商条約に調印 紀伊 徳川慶福(家茂)将軍継嗣となる

幕府、徳川斉昭・松平慶永を処罰 外国奉行設置 日蘭、日露、日英、日仏修好通商条約に調印(安政の5か

国条約)1859          イギリス駐日総領事オールコック着任 幕府、神奈川・長崎・函館の三港を開き露仏英蘭米5か国と自由貿易

を許可 橋本佐内、頼三樹三郎、吉田松陰ら死刑(安政の大獄)

1860        勝海舟ら咸臨丸でアメリカに向う。井伊直弼、水戸浪士に殺害される(桜田門外の変)5品江戸廻送令公

1861        水戸浪士ら高輪東禅寺のイギリス公使館を襲う(東禅寺事件)
1862        老中 安藤信正、水戸浪士らに襲われ負傷(坂下門外の変) 皇妹和宮、将軍家茂夫人となる 德川慶喜 

将軍後見職、松平慶永政事総裁職に就任 幕府改革始まる 薩摩藩士イギリス人を生麦村で殺害(生麦事件)

松平容保、京都守護職となる
1863          イギリス艦隊、鹿児島を砲撃(薩英戦争) 大和五条で代官所襲撃される(天誅組の変)京都の公武合体派、

尊攘派を追及(8/18の政変)但馬生野に平野國臣ら挙兵(生野の変)

1864 元治01年 家茂 新選組、池田屋事件 フランス公使ロッシュ着任 天狗党、筑波山で挙兵(天狗党の乱)長州藩兵、京都諸門

で幕府軍と交戦(禁門の変) 英米仏蘭の艦隊下関を砲撃(四国連合艦隊下関砲撃事件) 第一次長州征伐

1865          第二次長州征伐 英米仏蘭4国公使、条約勅許・具庫先期開港を迫る 将軍家茂、条約勅許・兵庫開港を奏請

              条約は勅許、兵庫開港は不許可

1866 慶応02年 家茂 薩長同盟 幕府 英米仏蘭と改税約書に調印 家茂急死し長州再征伐中止 德川慶喜 征夷大将軍となる

1867 慶応03年 慶喜 大政奉還 兵庫開港勅許 薩長両藩に倒幕の密勅下る 朝廷王政復古を宣言(王政復古の大号令)

1868          鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争始まる)五カ条の御誓文の掲示 政体書を定める 政府軍上野の彰義隊を討つ

 江戸を東京と改称 明治改元 一世一元の制を定む 榎本武揚ら函館五稜郭を占領

1869          版籍奉還 函館五稜郭の戦い 榎本武揚ら降伏(戊辰戦争終わる)

1871          廃藩置県


             

                                                                                                                                                                               

家康とその遺産

家康の考え方 人材第一

1.金銀 約260万両 日光東照宮造営料 金の茶道具

2.道具 刀剣 武具 茶の湯 能 文房具

3.身の回り品 衣類 生活調度品 遊戯具 海外輸入品 葡萄酒 しゃぼん びいどろ

4.備蓄物資 布 糸 菜種 ろうそく 紙 金属

5.書籍 学問を奨励し和漢の収集

5代将軍徳川綱吉

4代の家綱が子供がいないまま病床についたので、後継ぎ問題となった。新参老中 堀田正俊の推す末弟の館林候(綱吉)となった。

思い切った独自路線をとる。堀田正俊は農政、田畑永代売買禁止令の厳重施行。すなわち、江戸時代前期の体制に引き戻そうとした。しかし

その厳しさが人々の反感を買い殿中御用部屋で若年寄り稲葉正休に刺殺された。その後の綱吉後期政治を担当したのが、側用人 柳沢吉保。

萩原重秀とくんで、元禄という時代に対応した現実的な政策をすすめた。

例えば、経済社会化した時代に見合うようにと、貨幣を改鋳して通貨量を増やし、土地政策を改め、田畑移動を認め、地主小作制への道を開く。綱吉時代は徳川体制的な生産力がほぼ頂点にまで上り詰めた時代であった。領主と農民の分配率は「生かさぬよう殺さぬよう」をめどとする「七公三民」が「三公七民」へと逆転した。そのため、衣類は麻中心から綿へ、食は飢えをしのぐ食から賞味する食へ、1日2食から3食へ。燈火の時間を延ばした。つまり、元禄時代は江戸時代の中でも庶民生活が最も豊かで活気に満ちた時代であった。いわゆる、元禄文化は、豊かさの上に咲いた花であった。

こうした中、赤穂浪士の討ち入り事件がおきた。

8代将軍徳川吉宗

吉宗は徳川家以外から入った最初の将軍。初代家康は11人の子。後を継いだのが秀忠。その後、国千代がつぐかに見えたが、春日野局と家康の裁断により、竹千代(家光)が三代将軍となった。次いで、家光の長男家綱がつぎ、子がなかったので、大老酒井忠清らの京都から幼少の親王を迎えるという案と家綱の末弟綱吉案が対立したが、父、家綱の遺言という形で5代将軍綱吉が成立した。綱吉にも子がなく、兄綱重の子、家宣が6代将軍となった。その後4歳の家継が継いだが、8歳で死亡したため、ここで完全に家康の血は絶えた。そこで御三家の尾州次友、紀州吉宗、水戸綱条の中から選ぶことになり、最終的に吉宗が8代将軍となった。

吉宗の第一の課題は元禄末の行き詰った幕府財政を立て直すことであった。彼は信頼する水野忠之を起用、年貢率の引き上げと、上米の制を実施して成功した。行政と司法の分離のきっかけを作った。公事方(所願・諸伺、訴訟担当)と勝手方(民政・財政担当)。

また、法の整備と判例の編集に力をいれた。大岡忠相を使って、都市政策を実施。

物価問題は問屋、仲買、小売りの3段階に分け、仲間、組合を作らせ物価抑制を行った。また、町火消組の編成も行う。

江戸と城下町

16世紀から17世紀にかけて都市の発達が著しく、現代に続く都市の時代の幕開けといえる。全国に都市建設が相次いだ。兵農分離が進行する中、城下町が建設され、武士と商人・職人が都市集住を強制され、行政的にも都市支配と農村支配が分離されたからである。

したがって近世都市の主流は城下町が占める特色が生まれた。

武家地は目付、町人は町奉行、寺社地は、寺社奉行が行政的な支配管理を行った。

城下町の他にも、商品流通の活発化に伴い、船舶輸送が主要となり、港町、五街道を始めとする、道路整備、宿場町、寺社参詣での門前町、織物地などがある。

三都 江戸・大阪・京都 町の行政 町奉行や与力同心(町奉行の実務を担当 八丁堀組屋敷など) 高札(重要で恒久的な法令を掲示)・町触(時々の法令を解脱)・人別帳 (町内住民の調査)

武家地

参勤交代で江戸居住を義務付けられた。 上屋敷、郊外に別荘風の下屋敷、控えに中屋敷

町地

商人と職人を合わせて町人と呼び、その住まいを営むところを町地という。領主の「役」を負担したことが多く

呉服町・青物店・鍛冶町の町名を残した。

寺社地

町の周辺部に寺社を集めて寺町を配置したのは防備上の配慮だったといわれる。江戸では町地の2割を占めていた。

大火

都市災害の特徴。「火事と喧嘩は江戸の花」

消防隊は「火消」と呼ばれた。

8代将軍吉宗の改革の時、町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)のときに設置がすすめられた。

裁判

江戸時代は三権分立でなかった。政治的規範の性格が強いものであった。武家諸法度、禁中併公家諸法度、諸士法度、諸寺院法度など。一般の民事・刑事の裁判の基準は、始め法典を編纂しなかったが、多数のお触書が発布され、武家、庶民問わず徹底されていた。記録も残され判例として次の裁判で参照された。法典編纂の一つは「御触書集成」である。もう一つが「公家方御定書」であった。

裁判所

江戸時代では、幕府・諸藩は行政上の役所がそれぞれの支配権限内で訴訟を受理し採決するのが原則であった。

藩内では幕府に伺いを立てる必要はなかった。幕府でも寺社奉行、町奉行、勘定奉行で裁判が行われた。重大な訴訟は幕府の最高裁判所である評定所で行った。

検地と年貢

検地は領主が農民保有地に対して行う土地調査で租税課役賦課の基準となるものである。

太閤検地以来全国的規模で行われるようになった。これによって、村の境界が確定し、有力農民による中間搾取が否定され、重層的土地所有関係が否定され、一筆の土地に一人の名請人が確定し、石盛がなされて石高による土地生産力が把握されるようになるなど近世村落の基礎が確定した。

德川の検地は豊臣期とは測定基準が異なり、一部修正が加えられた。寛永から延宝にかけて、検地基準が統一され、全国的に実施された。慶安には検地施行の詳細を定めた検地条目が作成され、以後、貞享・元禄期にいたって整備された。

享保期には新田検地条目が作成され、年貢収奪は強化された。

村高が確定する土地台帳の作成。


幕末

江戸後期には農村荒廃し産業の近代化が起こり始めた。

農村家内工業が問屋制家内工業となり工場制手工業へと推移。

諸藩の借金返済計画

500万両を250年払い。

薩摩では島津斉彬のもと反射炉、造船所、ガラス製造所。

忠義は紡績工場、長州 村田清風は紙や蝋の専売制、資金の貸し付け、委託販売

佐賀では鍋島直正が均田制、大砲製造所、陶磁器販売

土佐では吉田東洋が緊縮財政再建と軍事力強化

列強による開国と幕府の転換

欧米列強がアジアへ。アヘン戦争。水野忠邦が異国追払。オランダが徳川家慶に開国勧告したが拒絶。アメリカ通商要求したが鎖国を理由に拒絶。

1853 アメリカペリーが浦賀に来航 ロシアが長崎来航 

1854 ペリー再来航。大砲威嚇。日米和親条約(下田函館開港)

1854 日英和親条約締結(函館と長崎の開港)

     日露和親条約締結(エトロフ島以南を日本にウルップ島以北をロシアに、樺太は両国雑居地とした。

1856 日蘭和親条約 軍艦購入

徳川斉昭を海防参与

川路 筒井 岩瀬 江川 高島 勝海舟らを登用し大船建造の禁を解き長崎に海軍伝習所、築地に講武場

長崎製鉄所(オランダ) 浦賀製鉄所(フランス)

1856 ハリス 日米協定(下田条約)

南紀派と(開国 井伊直弼ほか譜代大名)一橋派(攘夷 徳川 松平 島津ら外様大名)の対立南紀派に軍配が上がる

 井伊直弼が天皇の勅使が得られぬまま日米修好通商条約14か条に調印。その他安政の五か国条約 オランダ ロシア イギリス フランス。

幕府の弱体化。

八代将軍の徳川家斉の放漫政治が財政の窮乏化を招く

天保の飢饉でコメ不足 百姓一揆 

大阪町奉行元与力大塩平八郎が幕府米蔵の解放を要求したが逆にコメの買い占め江戸への回送が起こり、大塩の乱を起こす。

1837 家斉引退

水野忠邦が緊縮財政を実施しようとしたが、大奥の反対、これに加勢する若年寄りに阻まれた。

老中水野 天保の改革

倹約令 華美な服装 ぜいたく品 高価な菓子 料理の禁止。結果、流通混乱で物価高騰 諸大名からの不満で水野失脚。

1858 安政の大獄の始まり

密勅に関わった梅田雲次を逮捕。地方にも拡大し西郷隆盛が井伊直弼の罷免や斉昭の処分解除を要求。

吉田松陰(長州)橋本佐内(福井藩)ら死罪。

松陰は安政の大獄を指揮していた老中間部詮勝の暗殺計画を立てるなど過激な言動。1859 江戸で死罪。

佐内は考明天皇批判。開国や貿易促進を展開。結果死罪。

緒方洪庵の適塾 梅田雲浜や横井小楠と交友。将軍跡継ぎ問題に介入し1859刑死。

吉田松陰

佐久間象山の弟子。平戸へ遊学しアヘン戦争を知り危機感を強める。1853ペリーを直接見た海外に強い関心を抱き密航計画の失敗。

1855 松下村塾

伊藤博文や山形有朋など逸材を輩出させた。

                                                                                                                                                                      

1860 水戸藩による井伊直弼暗殺。 桜田門外の変。

1860 遣米使節 西洋文化を確かめ日本の近代化を推進。咸臨丸 勝海舟 福沢諭吉 中浜万次郎なども同行。アメリカ大統領ブカナンと会見。

勝海舟

1845 筑前黒田藩の永井青崖の門下生となる。欄和辞書の全巻書写。

1850 西洋兵学を教授

1853 海防意見書を提出

安藤信正

公武合体製作の推進 坂下門外の変

安政の五か国条約

大幅な輸出超過で国内物価上昇 攘夷運動(外国人排斥)

ヒュースケン暗殺。東禅寺事件。

イギリス公使館全焼。焼き討ち事件高杉晋作 久坂玄端

高杉は攘夷運動に加担。アヘン戦争を見て日本も清国と同様になるのではないかの不安があった。

薩摩藩

島津斉彬の弟久光

上洛が倒幕と誤解され寺田屋事件が起きる。

文久の改革  西洋式軍政の採用、参勤交代の緩和

江戸からの帰りに生麦事件。行列をイギリス人が横切り非礼として斬りかかる。賠償を無視して薩英戦争が起こる。

島津久光

漢学 歴史 詩歌 通俗国失編纂

虎尾の会 清河八郎 山岡鉄舟 尊攘派

ヒュースケン暗殺

清河は寺田屋事件で挙兵失敗 浪士組を結成した。門下に近藤勇 土方歳三 沖田総司

清河の策謀で幕府に呼び戻され残留の芹沢鴨や近藤勇ら24人で にぶ浪人組として京都守護藩松平容保に訴え会津藩あづかりとなった。

薩摩 会津共に長州の武力抵抗に備えるため 新選組の称号が与えられる。芹沢鴨は粛正された。

将軍家茂が上洛し攘夷を決行

長州藩がアメリカ商船を砲撃 久坂玄端 フランス オランダ反撃し亀山砲台を破壊。フランスも壇ノ浦の砲台を破壊。

四国連合艦隊の下関砲撃

そのころ、ニール東インド艦隊とともに鹿児島湾で交渉を待つ

薩摩の蒸気船を拿捕し薩英戦争が始まる。和平交渉賠償金を払わずイギリスから軍艦を購入。

倒幕運動激化

久留米畔 真木いづみ 長州藩 桂小五郎(木戸孝充)が攘夷親征について計画

会津藩と薩摩藩の提携

8/18の政変 天皇行幸の延期で長州の堺川警固の罷免

尊王攘夷派の天誅組が代官所襲撃 天皇行幸中止で孤立無援となり壊滅 天誅組の変

元福岡藩士 平野国臣を大和に派遣し襲撃を止めようとしたがすでに終わっていた。

生野の変で解散。

天狗党の乱

攘夷派水戸の藤田小四郎が加賀藩に捕らえられた。

政変により主導権を握った公武合体派は在京の不逞浪士の摘発に乗り出した。

幕府の手先となった新選組は不逞浪士の捕縛に奔走

京都焼き討ち計画判明

1864 池田屋事件

不逞浪士との戦闘となる 新選組 死のおきて 局中法度

近藤勇

試衛館を継ぐ。新選組局長就任 池田や事件 禁門の変 鳥羽伏見の戦いで惨敗 甲陽鎮撫隊と改称

敗退し新政府に斬首される

長州藩京都を目指す

公武合体派の分裂に乗じて京都に出兵 これにはづみをつけたのが池田屋事件

真木いづみ 久坂玄端 率いる千数百人で上洛

これに対し幕府徳川慶喜は長州討伐の勅許を要請 会津・桑名に出動を命じた   禁門の変

長州軍撃退 真木は自刃 考明天皇 長州征伐を命じる

1864 列強の軍艦が長州藩の砲台を砲撃

高杉晋作を正使とする降伏使を連合国側に送り停戦協定。 四国艦隊下関砲撃事件

長州征伐(第一次) 35藩 15万の大軍 すでに弱体化していた長州藩は戦わずして降伏。

やっと下った条約勅許

幕府と朝廷の間で協議 4か国による京都砲撃もありうることから条約勅許となった。

ロンドン覚書 新潟 兵庫の開港 

改税約書 輸入税を軽減し外国製品の輸入に便を与えるものになぅた。

高杉晋作 

騎兵隊を結成 戊辰戦争で活躍し1870解散

吉田松陰の門下生

佐久間象山に出会う 外国を見ろと教えられ1862 上海で近代化を痛感し帰国

1864 脱藩で野山獄につながれる

連合艦隊に派遣され高杉に好感をもったイギリスが長州に接近。

明治維新~第二次世界大戦  ( 日本の近代と現代 正村公宏著より)

明治維新

戊辰戦争の最中に明治天皇 五か条の御誓文を公布。1868                                                                

一つ、広く会議を興し万機(政治)公論決すべし。

一つ、上下心を一にして盛んに経綸(国の施策)を行うべし。

一つ、官武一途庶民に至るまで各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す。

一つ、旧来の陋習を破り天地の公道に基ずくべし。

一つ、知識を世界に求め大に皇基を振り起すべし。

政体書(アメリカの憲法や福沢諭吉の「西洋事情」を参考にした)

中央組織は 司法(刑法) 立法(上局、下局) 行政(民部、外国、軍務、会計、神祇)からなるが、三権分立は形ばかり

であった。

1865 浦上信徒弾圧事件、1873 切支丹禁制の高札の廃止。

1100年目の遷都

1867 王政復古 大久保利通 江戸への遷都を図る。

1867 江戸を東京と改め東京府を設置。1867 明治天皇即位。一世一代の制。

版籍奉還

領地没収として、薩摩、長州、土佐、肥前が版籍奉還の上表を提出。

藩主は改めて知藩事に任命。

版籍奉還後の太政官制。太政官(宮内省、禅正台、刑部省、開拓使、大学校、民部省、外務省、兵部省、大蔵省)と神祇官からなる。

廃藩置県

知藩事は罷免。東京に居住を命ず。中央政府下級武士が府知事、県令として赴任。府藩県の3治制を廃止。東京、大阪、京都の

3府と302県を設置。後に3府72県とし、さらに1888 一道三府四三県となった。

大久保利通 1830~1878

お由羅騒動で失職。斉彬が藩主となり復職。誠忠組の結成と公武合体。薩土同盟。王政復古。紀尾井坂の変で暗殺される。

太政官制を再興。二官六省とする。

三院政。

太政官左院、正院(宮内省、司法省<大審院>、開拓省、工部省、農商務省、文部省、内務省、外務省、兵部省<海軍、陸軍>、大蔵省、神祇省)、右院

国家の軍隊誕生

国民皆兵による徴兵制度。フランス式を採用。大村益次郎が構想した。引き継いだのが山形有朋。

1872 陸軍省、海軍省設置。徴兵告論 1873徴兵令公布。満20歳以上の男子は全て3年間の兵役に就くことが義務付けられた。

実際には、戸主の跡継ぎや代人料270円の免除規定があり、下層農民の次男や三男が大半であった。働き手を奪われた農民の不満や血税の

恐怖から、血税一揆、徴兵反対一揆が起こった。

四民平等の実現

士農工商の廃止。富国強兵策。旧藩主、上層公家を華族。旧藩士、旧幕臣を士族。足軽を卒族。農工商に従事する者を平民とした。

1870 平民に対して苗字が、華族・士族・平民間の結婚が許された。非人の称を廃止し平民とした。しかし、社会的、経済的差別は

なくならなかった。

華族・士族・卒族の職業選択の自由。四民平等を実現した。

1872 戸籍編成を行い、華族・士族・平民の近代的戸籍(壬申戸籍)を作成。男1679万、女1631万の戸籍が作られた。

士族の没落

華族や士族は減額されたものの家禄が与えられた。禄制全廃により商工に転じたもの待ったが、失敗も多かった。政府は

資金の貸し付けや、屯田兵制度のような開墾事業を起こす。1876 廃刀令など武士の特権は全て失われた。そのため、各地で反乱。

外交

遣外使節団 1872 岩倉使節団 岩倉具視 木戸孝允 大久保利通 伊藤博文をヨーロッパ・アメリカに派遣。

台湾出兵と日清修好条約

1871 日清修好条約の締結。1871 琉球民族殺害事件がおき、台湾出兵(征台の役)。その後日清互換条約で琉球の日本への帰属

賠償金50万石。

1873 征韓派遣が反対にあい、西郷・副島・江藤・後藤・板垣が下野。明治6年の政変。

佐賀の乱をきっかけに征韓論を実施(江華島事件)により日朝修好条約(釜山・仁川・元山の開港、日本の領事裁判権の承認、

日本の無関税特権)

1854 日露和親条約。樺太・千島交換条約。

1871 琉球は鹿児島県に編入され、琉球藩を設置。国王尚泰を藩主とした。1874 日清互換条約で日本帰属が決まる。

1879 琉球藩を全廃し沖縄県となる。

1876 小笠原諸島の日本帰属。

地租改正

封建的制度の廃止。土地所有者からの租税徴収。田畑勝手作り許可。田畑永代売買解禁。

1873 地租改正条例を公布。地価を定め地券を発行。地価の3%を金納とし安定的なものになった。

反対運動も起きる。真壁騒動、伊勢暴動。

殖産興業封建的諸制度の廃止

富国強兵を目指し、殖産興業に力を注ぐ。

関所、宿駅、助郷の撤廃。株仲間の独占禁止、身分による制約の除去(移転、職業選択の自由)

近代的な産業の育成、新しい貨幣制度、土地所有権の確定。

1870 工部省設置。

佐渡金山、生野銀山、高島・三池炭鉱、長崎・兵庫造船所など国営化や鉄道の敷設。伊藤博文の指揮のもと行われた。

1873 内務省

大久保利通。製糸業、農業、牧畜を奨励する勧業政策。運輸をはかる道路の改修。代1回内国勧業博覧会。

殖産興業官営

佐渡、生野、高島、三池の官営化。

横須賀造船所、長崎造船所、大阪大砲製造所、東京砲兵工廠

富岡製糸場官営模範工場

愛知紡績所、群馬紡績所、三田育種場、駒場農学校など。

殖産興業--鉄道・通信・海運

1870~1872 新橋横浜鉄道開通

1870 岩崎弥太郎 大阪商会(後の九十九商会)を譲り受け海運の三川商会を設立。三菱汽船会社。

1871 前島密 郵便制度、万国郵便連合に加盟

1869 東京横浜 電信。5年後には北海道長崎。

1871 上海まで海底電線。

殖産興業北海道開拓

1868 函館戦争

開拓使を東京設置。蝦夷地を北海道へ。箱館は函館へ。

黒田清隆の建議で1834 屯田兵が制度化された。目的は士族授産とロシア防備。

新しい貨幣制度

それまでは 金貨、銀貨、銅貨、藩札、紙幣

1871 新貨条例制定 伊藤博文

銀行の設立 渋沢栄一 アメリカのナショナルバンク制度に倣い国立銀行条例を公布

不換紙幣を整理し金貨と交換できる兌換銀行券を発行。

のちに条例改正                                                                                                                                         

正貨兌換廃止し、資本金の80%まで紙幣を発行できるようにした。銀行は4行から153行になった。

殖産興業政商

政府の富国強兵の要望に応えて経済面、軍事面の補完をし、その見返りとして、政府から保護を受け、自己資本を蓄積していった。

三井、住友、鴻池。三菱は岩崎弥太郎、大倉喜八郎、安田善次。五代友厚・渋沢栄一

開拓使官有物払い下げ事件。政商と藩閥の結託事件で黒田は失脚

国会開設の直諭

払い下げが問題化する少し前から全国民権派の人々が大阪に集結。国会期同盟を結成。伊藤は大隈を罷免し国会開設の勅諭を発した。

板垣退助 自由党

大隈・前島 立憲改進党

文明開化思想

近代思想から生活様式まで積極的に西洋を取り入れようとした。文明開化自由主義、個人主義思想。天賦人権思想。

西洋思想紹介者

福沢諭吉(学問のすすめ)

西周

加藤弘之

中江兆民(ルソー民主主義思想、社会契約論)

中村正直(スマイルズ 自助論、自立自助)

明六社の結成

森有礼の主唱で明六社結成。福沢、西、加藤、西村参加。明六雑誌発行。

文明開化教育

国民皆学を目指す。学事奨励に関する被仰出書布告

フランスの学校制度にならった学制が公布される。

全国を8大学区に分け、32校の中学210校の小学校

全国 小学校 53760校

アメリカの教育制度を参考に1879年に改正される。学区制は廃止。設立経営は町村の裁量による

私学 慶応義塾(福沢諭吉)同志社(新島襄)

福沢諭吉

豊前中津藩士 福沢百介の次男

緒方洪庵の適塾に入門し 医学、生理学、物理学、化学を学ぶ

1858 蘭学塾を始める。1860 咸臨丸で品川サンフランシスコ間往復。ヨーロッパ派遣。西欧事情 著者

慶応義塾創設、時事新報の創刊

文明開化宗教

1868 神仏分離。仏像や仏具の廃棄・焼却。大教宣布の詔(みことのり)

神社、神道儀礼中心の公の施しとして公認

教派新道公認性。病気平癒、現世利益。

文明開化生活

鉛製活字と新聞発行。1870 横浜毎日新聞、1872イギリス人ブラック主宰の日新真事誌、東京日々新聞

小新聞 読売 郵便 報知新聞 暦と時間の変更 365日 24時間 7曜制 国の祝祭日を決める。

1871 断髪令 散切り頭。1872 京橋地区消失により道幅を広げ、レンガ作りの不燃建築都市計画。

士族の反乱

西郷、伊藤は不平士族の不満を朝鮮との戦いに向けようとした。征韓派下野。

岩倉、大久保は反対。佐賀の乱で征韓党の江藤新平捕らえられ、斬首される。

1867 神風連の乱熊本鎮台襲撃、秋月の乱宮崎車之助、萩の乱前原一誠。

自由民権運動の広がり

愛国公党板垣。佐賀の乱で解散し土佐に戻る。

政社の結成

立志社板垣、片岡、植木、林 自助社徳島 石陽社福岡 奨国社長野など

1875 板垣 愛国社を結成 大久保、板垣、木戸の3者会談

立憲政体樹立の詔が発せられる。立法諮問機関――元老院。 最高裁判所に相当する 大審院。県令からなる地方官会議。

板垣退助

1837 土佐藩士 乾正成の子 土佐藩主 山内容堂にかわいがられる。公武合体から倒幕へ。

容堂の公武合体論と倒幕を唱える板垣と意見が合わず1865に辞職。

1867 中岡慎太郎らと西郷に面会し薩土同盟を結ぶ。戊辰戦争に従軍。板垣退助と名乗る。

1882 板垣死すとも自由は死せず (暴漢に襲われ負傷したときの言葉)

不平士族最後の戦い

西郷の意に反し反政府、政府打倒に傾いていった。

西南戦争。薩摩軍-----熊本城を守る谷干城の軍が田原坂で死闘。薩摩軍敗北。鹿児島城山に立てこもり自刃。

1885 内閣制度の導入と政府機構の改革。

伊藤博文の構想。

    内閣を構成する国務大臣を各省の長官とする。

    国務大臣はそれぞれ直接に天皇を輔スケする

    内閣の統一性を維持するために総理大臣に強い総督権を与える。初代は伊藤博文

1880 警察と軍の機構改革

駐在所、派出所、交番の全国配置

1873 徴兵令

1888 市政・町村制

1890 府県制と郡制 古い村落の名称は字として残った。

1888 一道三府43県の体制

1943 東京府と東京市を統合して東京都となる 民会(地方議会)を設置

1886 憲法草案の準備 伊藤(井上 金子 伊東 補佐)

1888 憲法草案と皇室典範を審議するため天皇が親臨(自ら出席)して重要案件諮問機関として枢密院が設置された。

1889 明治天皇が大日本帝国憲法を発布

     大日本帝国は万世一系の天皇が統治する。天皇は神聖で侵すことができない。

     天皇は憲法の条規によって統治権を総攬し帝国議会の協算に基いて立法権を行使する。(立憲君主制)

1890 第一回総選挙 

大同クラブ55立憲改新党46愛国公党35保守党22九州同志会21自由党17無所属104

1890 教育勅語が発布

「欧米の思想に動かされて日本の実情を無視する急進主義に傾斜する民権派による議会支配を防ぐため人心誘導の指針が必要である」

この意見に対して教育勅語が用意された。天皇が恵良なる臣民」に対して「我が国体」(万世一系が統治する尊い国)の「精華」である「忠」と「考」に努め「天壌無窮」の(天地とともに永続する)「皇運」(皇室の命運)を「扶翼」し(たすけ)祖先の遺風を顕彰する(あきらかにする)ことを命じた後、両親に対する孝行、兄弟や夫婦の協力、朋友間の信頼、博愛、学問や仕事への精進など、励行されるべき徳目を列挙した。

公民としての権利と責任の意識を育てる姿勢は無く公共的空間の規範としての「忠」と私的空間の規範としての「考」が強調された。

民法と商法

1880 刑法と治罪法(刑事訴訟法)(フランス法に依拠)

社会生活のルールである民法典はフランス人の顧問の協力を得て元老院と枢密院で審議された。

1890 財産法と身分法

1890 企業活動のルールである商法典はドイツ人顧問の起草に基づいて公布された。

1892 日本固有の家父長制度的家族の美俗を守るべきとの反対があり延期。

1896~1898 民法典 1893~1899 商法典

民法典は 市場経済の基礎である私有財産権を優先したが戸主の権利を重視して長男の相続権を優位に置く家父長制を取り入れた。

1894 日清戦争

1900 清国の義和団事変への日本軍関与

1902 日英同盟協約

1904 日露戦争

1910 日本による朝鮮の併合

1911 アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ 通商航海条約 関税自主権を回復。

朝鮮の動き

日本による開国の強要が朝鮮の動乱のきっかけとなった。

1876 日朝修好条約

     閔妃派(みんひは) 清国依存の事大派と日本の協力の開化派の対立。

1884 事大派指導者殺害。清国の朝貢の廃止。門閥打破、人民平等権、地租改正を含む税制改革。改革派が清国軍に攻撃され

崩壊。

1885 日本は事件への関与否定

     日本の損害に対する謝罪と補償を認めさせた。李鴻章(りこうしょう)と協議 出兵の際の事前通告を約束。

国王高宗と王妃閔妃は日本と清国をけん制するためロシアに接近しようとした。

これに対し清国は袁世凱を派遣して朝鮮を管理させた。

福沢諭吉の脱亜論

日本はアジア諸国の近代化を待たずに独自に、西洋諸国の仲間入りを急ぐ必要がある。清国や朝鮮に対して日本も政商諸国

と同じような態度で接するしかないと主張した。

1894 東学党の農民が、日本人の米の買い付けに便乗して不正行為を繰り返していた朝鮮国内の商人・地主・富農や役人

に抗議する闘争を起こした。

東学は西学(キリスト教)に対抗して1860年に創始された宗教。教祖の崔済愚は人間の平等と万民の長生不死を説いたが「道を

曲げて民を迷わせた」という理由で1864に処刑された。教祖の免罪を晴らし東学を合法化させるため、各地でコメの倉庫などを襲撃。

清と日本が軍隊派遣。

日清戦争

1894 朝鮮政府が農民軍と和約し日清両軍の撤兵を要求。日本は朝鮮の改革の推進を提案。清は改革は朝鮮自身の問題とした。

ロシアが日本の撤兵を求めたが応じなかった。

1894 日本軍 韓国王宮を占領。ブンド沖で清国艦隊を奇襲した。日本は閔氏派政権を打倒し大院君に親日開化派政権を

作らせた。

1894 日本政府が清国政府に宣戦した。日本軍は朝鮮各地で清国軍を撃破し、満州に侵攻。黄海で日本の連合艦隊12隻と

清国の連合艦隊12隻が交戦。5隻を撃沈し3隻を大破させた。日本側は2隻大破1隻が損傷。

1895 威海衛を占領。台湾と諸島にも侵攻。

1895 講和条約を締結。

日本政府が擁立した朝鮮の開化派政権は

総理大臣の統括する内閣の設置、政府と宮廷の分離、身分制度の廃止、奴ひやひ民の解放、寡婦の再婚の自由、縁座法の廃止。

下関条約によって清国政府が朝鮮の独立を認めたため、国主の高宗は清国との主従関係を否定して改革大綱を宣布した。

しかし、朝鮮国民は日本の干渉に反発した。高宗と閔妃はロシアに接近、閔妃殺害。

1896 ロシアが高宗に親ロシア政権を樹立させた。開化派指導者は民衆に殺害されたり、日本に亡命したりした。

ロシアと日本は政治でロシア、経済で日本を確立しあった。

1897 大韓帝国に改める。

日本では民党が政府との抗争を中止。板垣が内相になる。自由党はロシアとの戦争に備える拡張予算を承認。次の松方内閣には

大隈重信の進歩党が協力し大隈が外相となる。

1898 第3次伊藤内閣の地租増徴案が否決され、自由党と進歩党が合同(憲政党)して過半数を占める勢いとなったため、

伊藤が総選挙を断念して辞職。

伊藤の推薦により天皇が大隈と板垣に組閣を命じ、大隈が首相と外相を兼ねて板垣が内相を務めた。

旧自由党と旧進党が対立し総辞職。

1900 選挙法改正。25歳以上の男性、納税を10円へ要件をかえる。

小選挙区から大選挙区制へ、その後10年桂太郎と西園寺公望が交代で政権を担当。

義和団事変

19世紀末の清国の実質的支配者は西太后。その後甥の光緒帝が即位。康有爲が下関条約に反対して抗戦継続。日本と同様の

立憲君主制採用を求める請願書を光緒帝に提出。

1898 変法として近代的学校制度、言論の解放、官制と兵制の改革、農工商の振興。

詔勅を発布したが保守派の強い抵抗にあい実行は阻止された。変法派の暴走を懸念した西太后は栄禄を直隷省の総督に任命して

北京周辺の軍隊を掌握させた。変法派は軍閥の首領である袁世凱に栄禄を殺害し西太后を軟撃するクーデターの敢行を要請した。

は光緒帝を監禁。康有爲と梁啓超は日本に亡命したが変法派6人が処刑された。

日清戦争の賠償金

増税  小作料軽減を求める農民運動 富者をうって貧民を救済する義和団をなのり

1900 政府の役所、キリスト教会、宣教師とキリスト教徒、外国品を扱う商店、鉄道・通信を襲撃。

西太皇后は義和団の掲げる「滅洋」に着目し手なずけようとした。「主要国が西太后の退位を求めている」といううわさが流れ

主要国に宣戦した。連合軍が天津と北京を制圧。ロシアが満州を占領。西太后は義和団討伐を命じる。連合軍と清政府軍で義和団

鎮圧される。

日英同盟と日露戦争

1902 日本とイギリス同盟協約を締結。清国における権益、韓国における権益の相互承認、清国と韓国に対する干渉の相互承認、

第3に対しての中立遵守、戦争の相手が2か国以上になった場合の参戦・海軍の施設の相互利用と共同行動、第3国に優越する海事

が維持。

清と約束のロシア政府 満州からの撤兵を中止し、大韓領内の軍事基地建設に着手。

日本からロシアへの提案。

・清と韓国の独立と領土保全

・商工業の機会均等

・韓国における日本の権益と満州におけるロシアの権益の相互承認

・韓国の鉄道の満州南部への延長と東清鉄道への接続

・反乱鎮圧のための日本の韓国への派兵とロシア満州への派兵の相互承認

・任務終了時の撤兵

・韓国政府による改革への助言と援助が日本の専管事項であることのロシアの承認

ロシアの回答

韓国領土の軍事的使用と朝鮮海峡の自由航行を阻害する軍事的工事の否認

北緯39度以北の韓国領土の中立地帯化

満州における日本の権益の否認

1904 ロシアと国交断絶

仁川に上陸、連合艦隊が旅順と仁川沖でロシアの軍艦を攻撃、日本宣戦、韓国から満州に侵攻、遼東半島に上陸

10月 ロシア艦隊38隻バルト海のリバウ港出発、バルチック艦隊。

1905 日本が大きな犠牲を払って攻略した旅順要塞のロシア軍が降伏

1905 5月 バルチック艦隊との交戦 日本圧勝 ロシア死者 5000 捕虜6000 日本死者 600

アメリカ

ルーズベルト大統領 講和斡旋を依頼

日露戦争後

1905 ポーツマス講和条約 ニコライ2世 領土分割と賠償を拒否したが領土については譲歩した。

 韓国に対する指導権 遼東半島南部の租借権 長春以南の鉄道および付属利権 北緯50度以南の樺太・沿海州・カムチャッカ沿岸の

漁業権

日露戦争の兵力 110万 死者 8万  ロシア人口 2400万 日本 4400万

1901 八幡製鉄所稼働 

ロシア 1905 第1次ロシア革命

韓国と清国の消滅

1904 財政と外交を日本が管理 1907 韓国政府軍の解散、主要ポストに日本人を任命 伊藤博文が安重根(アンチュングン)に

射殺される。

1910 寺内正毅が初代朝鮮総督に就任 韓国は日本に併合され王朝が消滅した後清国の王朝が消滅した。

1911 清国政府が財政赤字を埋める諸外国からの借款の担保にするため、鉄道を国有化しようとした。反対運動で多くの省が独立を

宣言した。辛亥革命 孫文を臨時大統領に選任。中華民国の臨時政府が設立される。

1912 袁世凱が大統領就任。革命派と各地軍閥とが抗争時代に入った。のちに国民党と共産党の内戦へ移行。

1911 小村寿太郎 日米通商航海条約を締結 関税自主権を獲得

日本の主要産業

1858 インドやアメリカから綿花が輸入された

1868 綿織物業 輸出産業に成長 

輸出品 製糸、茶、石炭、銅、木ろう、樟脳、干し魚

輸入品 綿糸、綿織物、毛織物、機械、金属

経済開発の資金は大部分国内でまかなわれた。

まだまだ先進国との格差は極めて大きかった。

第1次世界大戦

日露戦争後 財政、国際収支赤字 戦費調達のための外債の利子と償還費用が大きな負担

しかし、軍部は韓国併合と中国の混乱に刺激され軍備増強を強く要求

1912 明治天皇 病没 大正となる

桂内閣が成立 1913 山本権兵衛内閣 1.3年で総辞職。

大隈重信内閣成立

1914 第1次世界大戦勃発

ボスニアのサラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビア人の青年に射殺された。オーストリアはセルビアに対し関係者の逮捕を要求する

最後通告をつきつけた。オーストリアの内部にロシアの参戦を恐れて外交処理を求める意見があり慎重だったが、ドイツの支援の約束を

とりつけた外相が強硬論を押し通した。セルビアは拒否

7/18 オーストリアがセルビアに宣戦布告

セルビア---ロシア フランス

オーストリア ---ドイツ オスマン帝国 

イギリスはドイツによる中立侵害を理由にセルビア側に参戦

大戦の契機は多くの民族が居住するオーストリア ハンガリー二重帝国とスラブ系民族を支援して勢力を拡大しようとしたロシアの対立

にあったが地域紛争が世界規模の戦争を誘発した。背景には帝国主義的諸強国間の勢力拡大を目指す闘争であり、新興勢力ドイツに対する

イギリス、フランス、ロシアの警戒心があった。

対華21か条要求

日本の多くの指導者はヨーロッパの大戦は勢力圏拡大の好機と考えた。

1914 イギリス 極東のドイツ巡洋艦の撃破を日本に要請

外相 加藤高明が「東アジアドイツ勢力を一掃すると伝えた。イギリスは日本に軍事行動の見合わせを要請。交渉の結果

イギリスが交戦地域の限定を条件に日本の参戦に同意。

8/23 日本はドイツに宣戦 ドイツが支配していた膠州湾と南洋諸島を占領しインド洋と地中海に軍艦を派遣。

1915 加藤が中国の袁世凱に21か条の要求を突き付けた。

第1~4号までの14か条は

山東省のドイツの諸権益の日本への譲渡、南満州と内モンゴル東部の日本の特殊権益の承認。

1923年に期限満了となる旅順・大連・南満州鉄道の租借権の99か年延長。

漢沿岸煤鉄公司の日中合弁事業化

中国沿岸の港湾と島を他の国に割譲しない約束

第5号の7か条

袁世凱政権の日本への従属を求める露骨なもの

日本の政治顧問 財政顧問 軍事顧問 警察官 官史 技師の採用

兵器の半数以上の日本からの購入、合弁の兵器工場の設立と日本からの技師、材料の受け入れ、福建省の鉄道・鉱山・港湾・造船所

に関して外国資本を必要とする場合の日本との協議

中華民国では袁世凱政権と華南の革命派が対峙し、軍閥が割拠しており将来は不透明であったが、日本を含む諸強国に抵抗する

動きが強まっていた。

孫文は民族、民権、民政の三民主義を提唱

止む無く21か条を受け入れたが、これが反日闘争へ転回させ、1931満州事変、1937 支那事変とつながった。

第1次世界大戦の結果アジアへの輸出増加、大幅黒字。好景気の結果就業構造の変化で非農業人口の増加、所得の上昇で

消費増大、米生産は頭打ち、米価格の上昇 地主の売り惜しみ、商人の買い占め ----米騒動が起きる。炭鉱闘争もあり

原敬内閣の誕生。

1910年代 社会主義思想の出現 憲政擁護、普通選挙、民本主義の主張。1906 国家論および純正社会主義

中国の排日運動を目撃、米騒動に接し国家改造論を主張した。

近衛文麿 日本は生存のためドイツと同様、現状打破の行動にでなければならないという考え方。革命派の指導者として期待される。

ロシア革命と大戦の終結

1914 第1次世界大戦始まる

1915 イタリアが宣戦

1917 ロシアで革命起こる。帝政は崩壊したが戦争は継続。アメリカがドイツに宣戦。

1918 アメリカ大統領 ウィルソンが大戦終結を目指す14か条の平和構想を提示。

1918 ブルガリア、オーストリア、ドイツが相次いで降伏し大戦は終結した。

1919 パリ講和会議 国際連盟と国際労働機関が設立された。

ドイツに課された莫大な賠償がナチス台頭の遠因となった。

戦争の拡大

第1次世界大戦が終結すると日本は不況に陥った。中国軽工業の成長、日本企業の中国内工場進出、ヨーロッパ製品のアジア復帰。

1923 関東大震災 死者不明14万人 山本内閣 戒厳令 治安維持亀戸事件や在日朝鮮人の殺害。

1924 虎ノ門事件 山本内閣総辞職 清浦圭吾が護憲内閣組織。 加藤の連立内閣

1925 衆議院議員選挙法改正 選挙権は25歳に据え置かれた

中国の変化

1925 孫文の病死 

1926 蒋介石の国民革命軍が北伐を開始。国民政府は武漢に移る。

1927 上海の労働者がゼネストを決行し北伐軍が上海と南京を占領。

張作霖爆殺

1927 田中義一内閣が発足 蒋介石 南京に国民政府を樹立 国共合作を解消 多くの共産党員が殺害された

中国共産党 毛沢東は農村を基礎とする闘争の転換を図る。

田中内閣 北伐妨害のため山東省に出兵。

1928 蒋介石が北京を制圧。

日本は軍閥の首領 張作霖を擁立しようとしたが関東軍参謀 河本らが列車爆破で張作霖を殺害。

これがきっかけで日本の膨張主義者は追い詰められた。

金解禁とロンドン軍縮会議

金本位制への復帰(金解禁)

金本位制は中央銀行が一定の価格による銀行券と金の交換を保証し、自国通貨と外国通貨との変換比率(外国為替相場)を狭い変動幅

の中に収める制度

アメリカ1917に金本位を停止、1919 金本位復帰。イギリスも復帰、経済危機を招く。日本の円の対ドル価値も下落、輸出産業に

打撃を与えることは確実であった。1930 旧平価による金解禁が強行された。

金解禁は1929のニューヨークの株価暴落に始まる世界恐慌の日本経済への影響を増大させた。

1930 ロンドンで海軍軍縮会議 日本では国家主義者が非難、浜口首相銃撃し重傷を負わせた。浜口病状悪化で総辞職。

若槻首相が就任。政府を打倒するために右翼や軍との連携をいとわなかった政治家が墓穴を掘った。

満州事変

1931 情報収集にあたっていた陸軍の将校と随行員が中国軍に射殺された。

万宝山に入植した朝鮮人の用水路開削に中国人農民が抗議する事件が起き、誇大報道で朝鮮各地で報復暴動がおこった。

関東軍が柳条湖付近で南満州鉄道に爆薬を仕掛け中国側の破壊工作だと称して奉天、長春、営口、吉林などを占領。

中華民国が国際連盟に提訴。満州事変調査委員会が組織された。イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアで構成。

満州事変の収拾に失敗した若槻内閣が総辞職。

犬養内閣が(蔵相は高橋是清)が金本位制停止を閣議決定

1932 アメリカが「満州の日本の行動を承認しない」と声明。

1932 世界の関心を満州からそらすため上海事変を起こす。

日本の国民は満州事変や上海事変の真相を第2次世界大戦まで知らされなかった。

5.15事件と2.26事件

1932 満州国の建国が宣言され、清朝最後の皇帝薄儀が執政に就任。国防は関東軍に、行政の実権は日本人に委ねられた。

1932/5 海軍将校と陸軍士官学校生徒が首相犬養毅を射殺。(5.51事件) 斎藤実が後継首相。

1932/10 リットン調査委員会の報告書が発表された。「日本軍の行動は合法的自衛行動ではない。満州国は自発的な独立運動

ではない」としながらも、中国側の排日運動を批判し、吉林、黒竜江、奉天の三省の自治政府の設置と中国・日本の軍隊の撤退を

提案する内容だった。日本の既得権益は認められた。中国は受諾。日本は拒否。賛成21 反対1 棄権1

日本政府は国際連盟を脱退。

関東軍は河北省に侵攻。広大な非武装地帯を設置して中国軍を排除した。

1934 斎藤実内閣が汚職事件のため総辞職。岡田啓介内閣が発足。

陸軍の内部には、天皇親裁を求めるクーデターを企画する皇道派と陸軍全体を統率して政府を動かし国家総動員体制を築こうとする

統制派が対立していた。

1936 皇道派の将校が1400人の兵士を率いて首相官邸など十数か所を襲撃した。2.26事件

1936/2 反乱軍投降

広田弘毅内閣となる。

1936/10 ヒットラーの支配するドイツ政府との防共協定が締結された。

支那事変

1936/12 蒋介石が張学良に会って共産党討伐を督促。張学良は蒋介石を軟禁し抗日を優先するよう要求。

周恩来が調整に当たり抗日を優先することを約束させられた。

1937/1 広田内閣総辞職(首相と陸相の対立) 林銑十郎内閣 5月 総辞職 6月 近衛文麿内閣が成立。

1937/1 盧溝橋付近で日本軍が何者かに発砲され、戦闘がおこった。近衛鎮圧停戦のため、増派を決定。(支那事変)

日本軍は猛進し南京を占領。このとき捕虜や一般市民の相当数を殺害して国際社会で非難された。(南京事件)

蒋介石は抵抗、中国共産党も抗戦を激化。

1939/8 スターリンのソ連とドイツが不可侵条約。ドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに宣戦。

ソ連軍ポーランド東部に侵攻。

1940/4 ドイツ軍はノルウエー、フランス、オランダ、ベルギーを制圧。

日本の相当数政治家、外務省、軍人はヒットラーの「電撃作戦」に幼惑され、ドイツ、イタリア、日本の三国軍事同盟を志向した。

大東亜戦争

1940/1 に組閣した米内光政はアメリカとの関係悪化を懸念して三国同盟に反対したが、陸軍が陸相を辞職させ後任を

送らず、7月に総辞職。

第二次近衛内閣誕生。

外相 松岡洋右

陸相 東条英機

閣議が大東亜新秩序と国防国家建設を目指す基本国策要綱を決定し、大本営政府連絡会議が武力行使を含む南進政策を確定した。

9月 日本はフランスのドイツへの降伏に乗じてフランス領インドシナ北部に軍隊を進駐させた。

アメリカ屑鉄の対日輸出を禁止。

日本、三国同盟を締結。

1941/4 アメリカとの交渉

国務長官 ハル 

すべての国家の領土保全、主権尊重と内政不干渉、通商機会の均等、平和的手段によらない太平洋の現状変更の禁止という4原則

を示しインドシナと中国からの撤退を要求。

外相 松岡

日本、ドイツ、イタリア、ソ連の4国同盟を考えたがドイツのソ連侵攻で構想は破産。

7月 第3次近衛内閣

インドシナ南部に進駐

アメリカは日本人の資産凍結、綿花、食料を除く輸出禁止。蘭印(オランダ領インド、インドネシア)の現地政府も石油の日本への

輸出の全面禁止。

10月 近衛内閣が総辞職し東条内閣が成立。

中国との戦争は正義の戦争と言い張って国民に大きな犠牲を払わせてきた日本の指導者たちは、中国からの全面撤退を認める

事が出来なかった。

1941/12/1 御前会議(天皇が臨席しての大本営連絡会議)が開戦を決定し、日本軍がマレー半島、ハワイ、フィリッピンを奇襲。

1941/12/11 ドイツとイタリアが三国同盟に基づいてアメリカに宣戦。

ドイツ軍は1941/6 ソ連に侵攻。日本軍は中国との戦争の行き詰りを打開しようとインドシナに進出し、アメリカの対日経済封鎖を

誘発した。

日本軍はフィリッピン、マレー半島、シンガポール、ビルマ(ミャンマー)、インドネシア、マーシャル群島、アリューシャン列島の

西部、ニューギニアの東部、ビスマルク諸島などに進出し広大な占領地域を支配した。

1942/6 しかし 、ミッドウエー海戦、ガダルカナルで敗れる。日本死者25000、アメリカ 1600人。

敗戦

1943/2 スターリングラードの9万余りのドイツ軍降伏。ソ連軍の精神が開始する。

/5 アメリカ軍アリューシャン列島のアッツ島に上陸し日本軍全滅。

/7 アメリカ軍とイギリス軍がイタリアのシチリア島に上陸し、ムッソリーニが失脚してバドリア将軍の政権が成立。

/9 連合国軍に降伏。

/11 カイロでルーズベルトとチャーチルと蒋介石が会談。(カイロ宣言)

1944/6 アメリカ軍とイギリス軍がノルマンディ上陸。8月にパリが解放された。

/10 ソ連軍がドイツ領東プロシアの国境を超える。アメリカ軍がフィリッピンのレイテ島に上陸。

/11 マリアナ諸島を基地とするアメリカ軍の長距離爆撃機が日本本土爆撃を開始。

やがて、数百機の編隊が大量の焼夷弾を投下して、都市住民を焼き殺す無差別爆撃を繰り返すようになった。

1945/2 戦争の結末を悲観した天皇が重心をここに招いて意見を聴取。

近衛文麿は「終戦を急がないと、日本は共産主義者に支配される。開戦前のいわゆる革新派も共産主義に踊らされたのだ」と述べた。

/4 アメリカ軍が沖縄に上陸。

   小磯内閣が総辞職。

鈴木貫太郎内閣が発足。海相 米内光政 外相 東郷茂徳

ソ連が日ソ中立条約を延長しないと通告。

東郷外相はソ連の仲介による終戦を打診

しかし、スターリンはヤルタ会談で、南サハリン、千島列島、旅順港のソ連への引き渡しなどを条件にドイツ降伏後3か月以内に

日本に宣戦することを約束していた。

/6 沖縄の日本軍司令部壊滅。各地で戦闘は続く。多くの民間人が犠牲となる。

死者 日本軍 9万 民間人15万 アメリカ軍1.2万

経済力と軍事力の差

アメリカは日本の2倍の人口と25倍の国土。経済力の格差は日本人の想像を超えていた。航空機を徹底して活用し勝利した。

B29が

広島、長崎の原爆投下

1941~42 戦艦大和撃沈される。



第二次世界大戦以後~復興~成長   (著者 正村公宏の書籍から整理) 

一か八かの賭け

日本の海上輸送力はアメリカの潜水艦と航空機により、破壊された。1941末1962隻が1945には796隻となった。

制空権と制海権を失う。大戦中の商船の建造と喪失はアメリカ 5185万トンと52万トン、日本 329万トンと814万トン

石油の供給

中東の油田開発が急速に進むのは大戦後であり、大戦前の日本はアメリカから石油を輸入していた。アメリカは世界有数の産油国であり

輸出国であった

アメリカの石油輸出禁止は1941に日本がアメリカに宣戦する重要な契機となった

日本は石油のあるうちに開戦して南方に進出し、蘭印の油田を確保しようとした

戦争初期蘭印を占領したが、輸送船がアメリカの潜水艦に撃沈され日本本土などへの輸送は困難になった

日本の石油在庫 1941/4 2085万バーレル 1945/4 19.5万バーレル                                                                          

日本の指導者は物量の格差は精神力で乗り越えることができると宣伝し、大和魂を強調したが、アメリカ軍の戦意は日本人の予想を

こえていた

ルーズベルトは「この戦争は、ヒットラーやムッソリーニや日本の軍国主義者のような全体主義勢力による世界制覇を阻止し

自由と民主主義を守り、日本の国民とそれらの軍隊に占領されている地域の人々を解放する戦争である」と宣伝した

ワシントンの日本大使館員の暗号解読が遅れたために日本政府による宣戦の通告が真珠湾奇襲のあとになったことを、非難し

敵愾心を強める結果となった

大西洋憲章 1941/8

「我々は領土その他の支配領域の拡大を求めないし、当該地域の国民の自由に表明された意志と一致しない領土の変更を望まない」r

大西洋憲章はイギリスの植民地保有などの既得権益に配慮しつつ、諸民族の平等と共存を可能にする国際秩序を追及するとともに

労働基準、社会保障などの拡充による経済と生活の安定を志向するという基本原則を提示している

連合国の戦争目的

連合国宣言 1942/1 ドイツ、イタリア、日本と戦争状態にある26か国の代表が署名

大西洋憲章の主張を共同の目的とし、単独講和を結ばないことの約束がなされた

1945/4 国際連合の設立総会が開催された

国連憲章

人権と基本的自由の尊重 人々の同権と自決の尊重

アメリカは世界における活動舞台の維持と拡張という国益

イギリスは植民地維持

ソ連はマルクスレーニン主義による共産党による 独裁 スターリンの個人

アメリカはこのことに目をつぶり、ドイツと戦うソ連を支援 ソ連の膨張主義を受け入れた

中国は蒋介石の国民党政権と毛沢東の共産党政権、日本軍が擁立した満州国政府、南京の汪兆銘政権が併存していた

共産主義と民主主義の異質な原理によって維持されていた

ポツダム宣言

1945/4 ソ連軍戦車隊がベルリン市街に突入、ヒットラー自決した

5/8 無条件降伏

7/17~8/1 ポツダムでアメリカ、イギリス、ソ連の首脳が会談 日本に対する降伏勧告文書を作成した

「ポツダム宣言」

トルーマン チャーチル 署名 蒋介石の同意を得る

内容

「世界を征服しようとする行動に出る過誤を日本国民に犯させたものの権力と勢力は永遠に除去されなければならない

捕虜を虐待したものを含む戦争犯罪人は処罰されなければならない 日本軍は完全に武装解除されなければならない」

など

ポツダム宣言の受諾

受諾主張派 鈴木首相 東郷外相 米内海相

戦争継続派 陸相 陸軍参謀総長 海軍司令部長

1945/8/6 広島原爆投下 8/9 長崎原爆投下

8/8~9 ソ連政府が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦した

8/8 天皇は原爆の威力を伝えるアメリカの放送の内容を上奏した東郷外相に

「戦争継続は不可能である。有利な条件を得ようとして戦争終結の時期をのがしてはらない。」と、語った。

8/10 最高戦争指導会議で「天皇の大権の変更は含まれない」という条件をつけて、ポツダム宣言受諾を決定した

8/12 アメリカ政府は「天皇と日本政府の権限は連合国最高司令官に従属する。政府の最終形態は日本国民の自由に表明された

意志によって決定されるべきものである」と回答してきた。

10数人の陸軍将校がクーデターを計画し終戦の詔書の録音盤の奪取を試みたが失敗し、首相の私邸を放火し、自害した。

8/15の正午にラジオで天皇の詔書が流された

8/16以降も戦争終結の遅れによる死者は、各都市の住民、満州、シベリア抑留など数十万に達した。

戦争と戦後の混乱で軍人、民間人を合わせて310万にが犠牲になったと推計される

同時に、日本軍の爆撃、強制連行、食料飢餓で数百万の外国人の生命が失われた

ソ連の言論、集会、結社の自由の否定による流動的状態

中国は毛沢東が中華人民共和国を建国

蒋介石は国民党政権として台湾に逃れた

朝鮮は南北にアメリカ軍とソ連軍が占領した

1950/6 北朝鮮が毛沢東の了解を得て韓国に侵攻

アメリカ軍と北朝鮮を支援する中国との戦争に変化した

インドシナ半島では全域を巻き込む深刻な戦争が起きた

アメリカ軍による日本占領

ソ連の日本分割占領の要求もあったが、占領負担軽減のため分割占領の案も作られたが、連合国司令官マッカーサーによる一括占領となった

1945/8/15 鈴木内閣総辞職

8/9 東久邇宮成彦王の内閣発足 軍の抵抗を抑えるため皇族が起用された

アメリカ軍は沖縄同様日本本土も直接統治を予定していたが、日本政府の要請を受け入れ間接統治を選択した

通貨も軍票でなく日本銀行券を使用することになった

総司令部(GHQ)が日比谷第一生命ビルに移る

総司令部は日本軍の武装解除、連合国軍の捕虜の解放、占領軍に対する情報提供、資源の統制、占領軍の労務と住宅の提供、民需生産の増強

、軍用品の生産禁止、総司令部による貿易の統制など、多数の指令を発した

新聞とラジオに対して、「言論の自由は奨励するが、占領軍に対する批判や占領軍の動静に関する報道は制限する」という基準を示した

占領初期の連合国司令部は大戦を引き起こした勢力を一掃し、国民を動員する制度や組織を廃止し、安定した民主国家を構築する

ために必要な諸制度を整備することを目指した

戦争犯罪の訴追

A級戦犯 平和に対する罪(侵略戦争の計画と遂行など重大な戦争犯罪

B級戦犯 従来の国際法による

C級戦犯 戦前、戦後の殺害、虐待などの非人道的行為

                                                                                                                                                                                 

1945/9 39人のA級戦犯を逮捕 東条英機(ピストル自殺を図ったが重症のまま収監される)など

/12 +9のA級戦犯 近衛文麿呂は収監前に服毒自決 BC級戦犯 937人が死刑 4479人が有期刑

憲法と政治制度

1945/10 総司令部の政治警察廃止に関する覚書は実行できないと考え総辞職

                                                                                                                             

1945/10 幣原内閣が発足し外務大臣に吉田茂が就任

1945/10/11 マッカーサーは「女性の参政権の付与、労働組合結成の促進、児童労働の是正、自由な教育のための学校の開設、

圧制と専制の除去、産業貿易における独占の是正と経済機構の民主化が必要、日本の伝統的秩序を改めるために、憲法の自由主義化も必要」

と述べた

職業軍人や軍国主義の鼓舞者教育界から追放し自由主義と平和主義を理由に解雇された人々を教職に復帰させることを指示した

11/22 近衛文麿が憲法改正試案を天皇に報告

12/27 民間の憲法研究会と政府と総司令部による憲法改正草案要綱を提出

「天皇の役割の国家的儀礼への限定、人権と自由、健康で文化的な生活を営む権利、労働組合と労働運動の自由の保障、寄生地主制と

封建的な小作料の廃止」などが提案された

政党の再編成と選挙法の改正

1945/9 単一社会主義政党結成

1945/11 日本社会党が発足 日本自由党を結成(鳩山一郎) 進歩党

1945/12 日本共産党 日本協同党を結成 農協

幣原内閣は農地改革、選挙法改正、労働組合法制定など改革に着手

12/17 改正選挙法が公布 男女平等 20歳からの選挙権

総司令部は、旧勢力の再選を阻止するため選挙の延期を指令

戦争犯罪人、職業軍人、諜報機関、憲兵隊、国家主義団体、テロリズム団体、大政翼賛会、翼賛政治解、大日本政治会に関与した

人間、旧植民地、占領地開発機関、有効企業、金融機関、行政機関の幹部であった人間を公職から追放するよう日本政府に指示した

極東委員会の発足と憲法改正問題

極東委員会 ワシントンに設置される日本に関する政策決定機関

日本国民の強い反発を招くことを懸念し天皇制存続を認める

総司令部の新憲法草案

1946/2 マッカーサーは基本原則を提示

    世襲制の天皇を元首とするが、その義務と機能は憲法に基づいて行使されること

    紛争解決の手段としても自国の安全を保持する手段としても戦争を放棄し、世界を動かしつつある崇高な理想に日本の防衛と保護

を委ね、陸海軍を保有せず交戦権を持たないこと

    皇族を除いて華族の権利は生存者一代限りとすること

    予算の型はイギリスの制度にならうこと

3/6 改正要綱を発表

・天皇は国民統合の象徴とされ、主権在民が明確にされ戦争放棄と非武装化

・基本的人権と自由、男女平等、社会的福祉と労働者の団結権の保障

・国会は衆議院と参議院の二院制 任期 4年 6

第一次吉田内閣

1946/4/10 総選挙  日本自由党が第一党となる 日本自由党と野党が幣原内閣の退陣要求

4/12 幣原内閣総辞職

5/4 大戦前のヒットラー称賛の文章が追及された鳩山を公職追放し吉田茂を総裁とする

自由、進歩の連立内閣として発足

新憲法の成立

11/3 公布 占領軍主導の憲法であった

 天皇は象徴天皇であり

 国会は国権の最高機関であるとされた

基本的人権の保障

1946憲法

「基本的人権は侵すことのできない永久の権利である」 

18世紀にアメリカ革命とフランス革命で宣言された人権の思想が日本の国家の原理として導入された

戦争放棄と非武装の宣言

憲法九条を「国際紛争を解決する手段としての戦力は持たないが、自衛のための戦力は保持する」と読むことができるようにしたと

言われている

経済制度と社会主義

総司令部は経済制度と社会制度の改革を指示

自由民主主義の導入だったが、近代社会が受け入れ始めた社会民主主義の流れは20世紀後半のうちには生まれなかった

農地改革

1945/12 農地改革

1946/10 第二次農地改革

1947/11 農協法

教育の改革

1941/4 小学校を国民学校と改称

小学校の尋常科を国民学校の初等科とした

高等科 2年が義務教育とされた

中等学校に進学しない生徒の国民学校高等科の履修が義務付けられる

1945/12 総司令部は国民学校の修身、国史(日本史)・地理の授業の禁止と教科書の回収を指示

1946/3 教育の地方分権、633制、教科書の改革、国語改革(ローマ字化)、男女共学を提案

1947/4 国民学校高等科を中学校(3年)

        初等科を小学校 

    中学の大部分は市区町村が用意した

1948/4 新制の高等学校

1949/4 新制の大学 (旧制の大学 高等学校 高等専門学校 師範学校) 移行の遅れた高等専門学校は短期大学

短期大学は過度的採用であったがその後、恒常的となる

財閥解体・経済力集中排除・独占禁止法

GHQは日本の軍国主義復活を阻止するために資産と所得の格差是正が必要であると考えた

1945 財閥系企業の資産凍結

1947/9までに

各財閥本社など財閥系華族所有の株式が処分された

銀行は分割の対象外とされた

王子製紙(苫小牧製紙・本州製紙・十条製紙に分割) 日本製鉄(八幡製鉄所・富士製鉄) 三菱重工(三菱日本重工・新三菱重工

・三菱造船) 大日本麦酒など 分割

日立製作所 東芝 日本通運の工場・子会社の分離売却

電力

日本発送電を分割し九電力会社設立

1947 独占禁止法制定

財閥解体後の大企業の経営

大戦前  資本財(生産設備) 軍需(兵器)

大戦後  家電 自動車 耐久消費財 大量生産・大量販売

鉄鋼 高炉を建設し銑鉄を自給するようになった

八幡製鉄 富士製鉄 日本鋼管 川崎製鉄 住友金属 5社が大規模な銑鋼圧延一貫工場を建設し競争

企業の所有は株主から経営者支配へ移行

  1946/5経団連

  1947 日経連

2002 日本経済団体連合会(日本経団連)に統合

金融緊急措置

1946/2 金融緊急措置命令 インフレを抑えるためだったが抑制は一時的なものだった

全ての預貯金が封鎖され、流通中の日本銀行券は3/2限りで失効とされた

旧円は新円と交換されたが交換可能金額は制限され残金は封鎖預金とされた

一般国民は大戦前後の巨額な政府債務の償還費用を巨額の増税という形でなく、預貯金などの金融資産の大幅な原価という形で負担

させられた

老後の生活資金などは一気に喪失した

片山・芦田内閣から第三次吉田内閣へ

大戦後の改革にはGHQの指導力が不可欠だった

閣僚や議員の対応は保守的であった

1946/4 参議院 衆議院の選挙実施

第一党の社会党 片山 哲が首相 炭鉱国家管理政策を採用

1946/8 政府追加予算をめぐって片山内閣総辞職

1948/3 芦田内閣

自由党と旧民主党幣原派が民主自由党を結成し吉田茂を総裁に選んだ

1948/10 昭和電工復興贈収賄事件で芦田内閣総辞職

2次吉田内閣

12月 内閣不信任案可決し1949/1総選挙

民主自由党が第一党となり第3次吉田内閣となる

1949 ドッジラインによるインフレの収束

1950 朝鮮戦争の勃発に対応する警察予備隊の発足という形の再軍備

1951 サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結

1952 日本の主権回復への変化を通じて内外政策を担うことになる

大戦後の改革

20世紀後半は1946憲法第九条をめぐる議論に費やされた

保守 再軍備 革新 9条の固守

1955結成の自由民主党

「民主主義を擁護し、独裁を企図する共産主義勢力や階級闘争による体制変革を目指す社会主義勢力と戦い、福祉国家の実現を目指す」

と宣言

経済の再建

経済の破壊

都は焼け野原、工場が破壊され、原料輸入も不可能、食料不足も深刻

米の生産

1935 米862万トン 麦303 1939-- 1035 348 1946--587 143

大麦、小麦、さつまいも、じゃがいも、大豆、とうもろこし、かぼちゃが主食として配給されたが遅配もあり、生命を維持することは

不可能であった

経済復興への模索

鉱工業の生産も大幅に低下 石炭 鉄鋼

火力発電 30%の被害 水力発電は被害小

鉄道輸送の石炭不足による低下

蔵相 石橋湛山 当面はハイパーインフレを警戒するのではなく生産増加を優先とした

1946/11 経済政策を石炭の生産に傾斜させる

財政赤字補填の国債を日銀に引き受けさせ通貨を増発させインフレが進行した

生産費抑制のため賃金の抑制も不可欠であった、労働運動の要因ともなった

戦争による破壊にも関わらず日本の主要産業の潜在力は維持されていた

重工業 人材と組織の維持

兵器開発は新しい技術 ラジオ、ミシン、自転車など軽量で比較的価格の安いもの

生産は徐々に回復しインフレの収束が問題となった

為替レート

1949/3 1ドル=360

1949 インフレ後の財政の持続的均衡を保証するため シャープ税制

合理化と国際競争力の強化

1950/6朝鮮戦争開始 東西対立が激化

石炭から石油へ 石炭産業の斜陽化

講和問題と朝鮮戦争

1949/5 講和後もアメリカ軍の日本駐留を希望すると吉田茂が発表

/11ソ連や中国が参加しない単独講和であっても全面講和に導くものなら応じる

社会党は全面講和、中立維持、軍事基地提供反対の3原則決定

中国の朝鮮戦争参加により全面講和の可能性は消滅

アメリカは朝鮮半島の北緯38度を境界とするソ連との分割占領を決定

ソ連は旧満州国で抗日武装闘争を経験し金日成を擁立

1948/8 大韓民国 1948/9 朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言された

1950/6 金日成は軍事力による南北統一を目指して韓国に侵攻させた

国連の緊急安全保障理事会が北朝鮮軍の撃退と平和回復のために勧告を援助するよう加盟国に要請

在日アメリカ軍を中心とする国連軍が組織される

7/8 マッカーサー アメリカ軍の朝鮮出動による空白と日本共産党の反政府闘争の先鋭化に対処するため、7.5万の国家警察予備隊

の創設と海上保安庁の8000人の増員を日本政府に指示した

9/25 在日アメリカ軍が朝鮮半島中部西海岸に上陸、背後をつかれた北朝鮮軍は敗走した

10 中国軍参入し国連軍を押し戻す

1953/7 休戦協定が成立

金日成の暴挙は凄惨な戦争の果てに挫折した

講和条約と安全保障条約

1950 対日講和問題打開のためトルーマンはダレスを起用

ダレスのまとめた第1次案

「日本を平和・親米・反共の国家に育てる。賠償は考えない。まず極東委員会構成国に予備会議を開催し、そのあとで全参戦国

の講和会議を東京で開催する。中国は北京と台北の代表参加を求め意見が一致した場合は1票としてあつかう。講和条約

締結と同時に予備会議参加国代表による安全保障協定を締結する。講和後の日本の国連加盟を認める。連合国による

日本の統制は考えない。」

1951/9 サンフランシスコで対日講和会議が開催される

   日本とアメリカの安全保障条約が締結される

大戦後の改革の見直し

1950/10 「日の丸」掲揚「君が代」斉唱を全国に通達

1951/1 文部省は道徳教育導入を目指した

 1954 教員の政治活動禁止、義務教育の政治的中立のための臨時措置法が成立

経済自立への取り組み

1951 朝鮮特需で国際収支はかろうじて均衡

   特需からの脱却が「経済の自立」 国際競争力、輸出の増加が優先課題とされた

政府直系の日本輸出入銀行と日本開発銀行を設立、郵便貯金と、厚生年金の積立金を原資とする重要産業の資金調達を支援

最大の融資先 電力と海運

企業の内部留保を助成するため各種の準備制度を整備し、設備の減価償却の優遇制度など企業の資本蓄積を支援した

道路の整備や国鉄の輸送力増強を目的とする政府の投資

政府は外貨の割り当てと関税による輸入制限で国内産業を保護した

自動車産業も保護されていた

実際効果をもたらしたのは積極的な民間設備投資であった

予想を超える変化

民間企業の設備投資を支えたのは、低金利の融資であった

社会は、借入金に依存する積極的な設備投資で生産能力を増加させた

借入金返済に備え自己資本比率を高めたが鉄鋼では他人資本率の依存が高く、電機や自動車は宣伝した利益を増加して比較的容易に

自己資本比率を高めることができた

予想をこえる民間企業の設備投資に主導されて日本経済は成長の軌道に乗ると、資源やエネルギー調達における国内開発優位政策は非現実的

となった

電力は「水主火従」から「火主水従」へ

燃料は「炭主油従」から「油主炭従」へ

鳩山内閣

1954/12 吉田à鳩山内閣

「自主憲法」の制定を目指したが成立せず

「経済自立五か年計画」

貿易収支の拡大的均衡

戦後ベビーブームで急増する就業社会の用意

1955 世界的好景気

1956 景気過熱、輸入増加の国際収支赤字、金融と財政の抑制政策が採用された 外貨不足 IMFからの借り入れ

1956/3教育委員会法案成立

経済成長を主導した産業

1950年代前半 日本型雇用慣行の形成期 大企業と中小企業の賃金格差

 消費者物価安定 実質賃金上昇

主要製品 繊維 ラジオ ミシン カメラ 自転車

1950後半 供給過剰 需要超過 賃金格差縮小

1960以降 主要製品

電機 自動車などの耐久消費財

1950年代に建設された主要なもの

鉄鋼の圧延一貫ライン 総合電機会社 家電など

1953 テレビ放送開始

   テレビの急増

   自動車 輸入制限に守られて生産を急増 乗用車生産に]乗り出す

   二輪・三車 トラック--à乗用車生産 

1960年代 電気冷蔵庫 電気掃除機 トラック カラーテレビ 乗用車 空調機の生産が100万台を超えた

石炭から石油へは超大型タンカーの建造で日本を造船大国にした

1950年代なかばから 東京湾 伊勢湾 瀬戸内海沿岸に石油コンビナートが建設された

ポリエチレン ポリスチレン 合成洗剤 硫安 塩化ビニール ナイロン

石炭の衰退 石油に対抗できず三井闘争争議や無理な合理化で悲惨な事故が繰り返された

石橋内閣と岸内閣

1951/6 ILO(国際労働機関)

1952/8 IMFと世界銀行

1954/6 ECAFE(国連アジア極東経済委員会)

1952/10 GATT(関税と貿易に関する一般協定)への仮加盟

1955/9 正式加盟

1956/10 鳩山内閣 ソ連と国交回復 北方領土懸案事項は残された

1956/12 日本が国連に加盟

1957/2 石橋内閣--à岸内閣へ

 大戦前と戦中の岸は国家主義に傾注し商工省の幹部、満州国の産業改革の責任者、東条英機内閣の商工相をつとめた

A級戦犯として逮捕されたが不起訴となり状況適応能力の高い政治家らしく政界に復帰し自由民主党の初代幹事長になった

インドネシア・南ベトナムとの賠償協定を締結

インドとの通商協定 円借款協定

中国との間では関係悪化

アメリカ軍の駐留問題

1957/6 アメリカ訪問

1951の安全保障条約は永久の存続の意図されたものでないこと アメリカ政府は日本の防衛力整備計画を歓迎し在日アメリカ軍

については陸上戦闘部隊の全面撤去を含む大幅削減を実施する意向であることなどが確認された

12月 「新長期経済計画」

1956~60 成長率 9.1%

水俣病 新日本窒素肥料の工場排水問題

炭労 90日間闘争 人員整理問題

日教組 政府が君が代 日の丸や修身の復活を図るなどとして抗議活動 勤務評定反対

総評 1950代以降の労働運動を主導

 経済成長の成果の公平な分配を求め労働者階級による体制の変革展望を持つ

1951 全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対・再軍備反対の平和4原則を採択

反対派は全労会議を結成

経済の不均衡

安保と三池

1959/1 三池鉱山が会社再建策 三井三池闘争

日米安保条約改定阻止国民会議が結成

全学連、デモ隊が国会構内になだれこむ

1960/1 岸と藤山はワシントンを訪問し「相互協力及び安全保障、アメリカ軍の配備と装備の変更および日本の基地とする戦闘作戦

行動についての事前協議を約束する交換公文、在日アメリカ軍の地位や施設・区域を定めた「地位協定」」に署名した

新安保条約の国会審議が開始された 中国とロシアは日本の中立化を要求した 非武装中立を唱える社会党はアジアの紛争によって

日本が戦争に巻き込まれると主張した

1960/5 アイゼンハワー訪日前に新条約を成立させようとしたがデモ隊が国会を包囲し民主主義擁護を叫んだ

安保闘争

1960/6 右翼がデモ隊襲撃 

    国会内に突入したデモ隊と警察隊が衝突もみ合いになり、東京大学の女子学生が死亡

6/19 新安保条約

6/23 岸は退陣を表明

1950代後半 全学連分裂

池田内閣

1960/7 池田内閣発足

「寛容と忍耐」を強調

1960/10 民主社会党の党首 浅沼が右翼少年に刺殺される

1960 解散総選挙

 自由民主党の政権は不動であった

池田内閣 「国民所得倍増計画」を決定

  都市化対応住宅 生活環境の整備 地域間格差の是正 国土の保全 社会保障 社会福祉の充実 農業 中小企業の近代化

政策は質と量の面で不十分であったが経済成長は想定を超えて高くなった 社会的不均衡は予想を超えて深刻となった

高度成長

1964 新幹線 東京オリンピック 池田内閣病気のため総辞職 佐藤栄作内閣

 高度成長の歪の是正 社会開発 安定成長

1960年代は西側先進国の経済成長の時代

日本は

供給過剰 需要超過 労働条件を改善しないと雇用の確保が難しくなった 零細中小の賃上げ 休日増加

消費者物価は上昇 名目賃金上昇率は消費者物価上昇率を上回っていた

貿易収支は1960年代後半から黒字へ 貿易拡大 円高へ

政治家の集票効果のあるばらまき型の過大な公共投資

国際的地位

1964 「先進国クラブ」 OECD(経済協力開発機構) IMF 八条国へ

八条

経常取引に関する為替制度の廃止

差別的通貨構造の撤廃など 日本は先進国ルールの遵守を求められるようになった

GATTで貿易と為替の自由化を求められる

岸内閣で企業合併による産業再編成

佐藤内閣 日韓基本条約と4つの協定を締結

1972 沖縄返還が実現

核抜き本土並みの原則

佐藤内閣引退 田中内閣 田中と大平が中国周恩来との共同声明に署名

1978/8 福田内閣 日中平和友好条約の締結

公害問題

水俣病 水銀 

イタイイタイ病 カドミユム

粉ミルク ヒ素

PCB カネミ倉庫

サリドマイド 鎮静 睡眠剤

エイズ 後天性免疫不全症候群 非加熱製剤の使用禁止

アスベスト 発がん性

国連環境計画(UNEP)大気圏オゾン層の破壊

以下 伊勢弘志 飛矢崎雅也著より

大平内閣

田園都市構想

福田ドクトリン

全方位平和外交
アジア地域を軸に日米外交の自主性を強調した

1977 日航機ダッカハイジャック事件 日本赤軍

鈴木内閣 増税なき財政再建

中曽根康弘が国鉄 電電公社の民営化検討を始める


中曽根内閣

   1982〜1987まで安定政権を運営
   トップダウン型政治手法 行革 戦後政治の総決算 増税なき財政再建や国鉄民営化
   専売公社民営化を土光臨調で実施

   総合安全保障 ブレーン 高坂
   軍事財政面では日米蜜月時代といわれる

1983 大韓航空機がロシアに撃墜される スパイと誤認

    米国の対日貿易赤字が巨額となりレーガン政権は米国内の民間企業から圧力をかけられ
    プラザ合意を請け円高のシフトを促し貿易不均衡を防ごうとした
    240円から150円になった

    結果は円高不況にならず海外資産の買いあさりや海外進出が容易になり空前の「バブル景気    」となった 米国の巨額赤字も解消されなかった 

    円高対策として日本は長期低金利政策による不動産や株の投資加熱がバブルの原因

    土地転売による資産価値の増大が実態経済のない景気によるバブルで一挙に弾けることにな    る

    買い手減少が始まり土地価格の下落、一気に資産売却に回った

    中曽根内閣は復古的施策を信譲渡し保守回帰といわれる
    ゆとり教育 愛国教育 防衛費増大にその傾向がみられる

1987 中曽根辞職
     竹下内閣誕生
1989 昭和天皇 死去

    政官財の癒着構造がみられた
    消費税増税を実現させた

1988 リクルート事件発生
    政官財の癒着が発覚し退陣I追い込まれる

1991 イラク空爆 ブッシュ政権
     後を継いだ宇野内閣が2か月で退陣

1989 海部内閣となる

    日米構造協議により自動車対米輸出抑制 農産物 牛肉の自由化を求められる

    ジャパンバッシングがあった

1989 天安門事件 

1992 宮沢内閣
     
     経政会分裂 55年体制の崩壊 自民党下野

     天皇皇后の中国訪問 河野談話で謝罪 中国との接近

1993 細川内閣
    新党ブーム 羽田 小沢の新生党
    7党一会派による連立政権

    自民党が達成できなかった改革を推進したが税収拡大のため「国民福祉税」なる構想を発表
    し、このことが小沢のいいなりとの印象をあたえ借入金スキャンダルで辞任

1994 羽田 孜内閣となる

1994 自民 社会 による連立政権
     
    村山富市内閣

    従来の社会党理念を後退させ 自衛隊容認 安保堅持 反原発の方針転換 非武装中立の
    破棄

     pkoによる国連平和維持活動に参加

    日本政府の歴史問題に対する公式見解として村山談話を発表

    「植民地支配と侵略によるアジア諸国に損害と苦痛を与えたことをお詫びする」という内容だっ     た

1995 阪神淡路大震災発生
    オーム真理教 地下鉄サリン事件

    バブル崩壊の影響 消費税 3%を5%にした

    住宅金融専門会社への財政支援したが破綻
    大蔵省と住専の関係が明らかとなり村山内閣辞任 1996/1

1996 橋本内閣
    構造改革 財政再建を掲げる
    社会党は解体し少数政党となる

    日本経済再建 長寿対策 自立的外交 行革
    
    支出抑制 医療費値上げ
    結果は 銀行の貸し渋り 山一證券破綻

     参議院選挙で大敗し辞任
   小渕内閣 平成の時代

   橋本内閣と正反対の景気回復を重視した

   企業はリストラ 人員削減 就職氷河期などがおきる

   自民 自由 公明の連立内閣

2000 小渕首相 死去

    森喜朗内閣となるが支持率上がらず退陣
    沖縄サミット開催

    改革的変化を期待する国民の支持を受け小泉純一郎が登場

    このころから米国のIT革命による世界グローバル化が始まる

2001 9.11同時多発テロ発生

2003 アメリカのイラク軍事介入始まる

    民営化を軸とした構造改革
    
    テロ対策特別措置法  イラク特措法 自衛隊の後方支援派遣

    北朝鮮を電撃訪問し日朝首脳会談を行う
    
    拉致問題解決 植民地支配の清算 国交正常化合意「日韓平壌宣言」

    竹中を担当大臣とし郵政民営化 道路公団民営化 不良債権処理 規制緩和を行う

    郵政民営化を問う総選挙で圧勝

    一方 新自由主義で非正規拡大 格差拡大 弱者切り捨てなどの問題が顕著となる

2006  小泉 任期満了で安倍晋三が首相となる

     戦後レジュームからの脱却
     中国 韓国訪問

      体調不良のため辞任

     福田康夫 麻生太郎内閣があとを次ぐが不況の長期化、失態続きで
     民主党に政権を渡すことになる

2009 民主党政権誕生

    鳩山内閣
    脱官僚 政治主導
    沖縄普天間移転問題や金銭問題で辞任 2010

    菅直人内閣

    消費税増税問題で参議院選挙惨敗

    東日本大震災発生
   
    福島第一原子力発電所が重大事故発生

    野田政権が後を継ぐ

    消費税増税問題で自民党に政権が渡る
2012 第2次安倍政権となる
    以下 菅 岸田が後を継ぐ